1189年 (文治5年 己酉)
 
 

8月1日 戊子 晴 [玉葉]
  今日法然房の聖人に請い、法文語及び往生業を談る。
 

8月3日 庚寅 晴 [玉葉]
  東大寺聖人重源来たり、余これに謁す。御柱百五十余本採りをはんぬ。十余本すでに
  御寺に付きをはんぬ。上の御沙汰緩めざれば、三ヶ年の内造畢すべしと。而るに当時
  の如きは、周防の国中の荘園の人夫合期せず。また一向対捍の所等有り。申し上げる
  と雖も、御沙汰無し。また彼の国造寺以後に付けらるる新立の荘五六ヶ所に及びをは
  んぬ。此の如きは始終叶うべからず。諸図、麻苧並びに人夫一切叶わず。然れば空し
  く一州を領し成すこと無きの由、必ず謗難を蒙るか。仍ってただ御仏事を奉行し、造
  寺の事を辞さんと欲すと。余再三制止を加えをはんぬ。
 

8月7日 甲午
  二品陸奥の国伊達郡阿津賀志山の辺国見の駅に着御す。而るに半更に及び雷鳴す。御
  旅館霹靂有り。上下恐怖の思いを成すと。泰衡日来二品発向し給う事を聞き、阿津賀
  志山に於いて城壁を築き要害を固む。国見の宿と彼の山との中間に、俄に口五丈の堀
  を構え、逢隈河の流れを堰入れ柵す。異母兄西木戸の太郎国衡を以て大将軍と為し、
  金剛別当秀綱・その子下須房太郎秀方已下二万騎の軍兵を差し副ゆ。凡そ山内三里の
  間、健士充満す。しかのみならず苅田郡に於いてまた城郭を構え、名取・廣瀬両河に
  大縄を引き柵す。泰衡は国分原・鞭楯に陣す。また栗原・三迫・黒岩口・一野辺は、
  若九郎大夫・余平六已下の郎従を以て大将軍と為し、数千の勇士を差し置く。また田
  河の太郎行文・秋田の三郎致文を遣わし、出羽の国を警固すと。夜に入り、明暁泰衡
  の先陣を攻撃すべきの由、二品内々老軍等に仰せ合わさる。仍って重忠相具する所の
  疋夫八十人を召し、用意の鋤鍬を以て土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢えて人馬の
  煩い有るべからず。思慮すでに神に通ずか。小山の七郎朝光御寝所の辺(近習たるに
  依って祇候す)を退き、兄朝政の郎従等を相具し、阿津賀志山に到る。意を先登に懸
  けるに依ってなり。


8月8日 乙未
  金剛別当秀綱数千騎を卒い、阿津賀志山の前に陣す。卯の刻、二品先ず試みに畠山の
  次郎重忠・小山の七郎朝光・加藤次景廉・工藤の小次郎行光・同三郎祐光等を遣わし
  箭合わせを始む。秀綱等これを相防ぐと雖も、大軍襲い重なり攻め責むるの間、巳の
  刻に及び賊徒退散す。秀綱大木戸に馳せ帰り、合戦敗北の由を大将軍国衡に告ぐ。仍
  っていよいよ計略を廻らすと。また泰衡郎従信夫の佐藤庄司(また湯庄司と号す。こ
  れ継信・忠信等の父なり)、叔父河邊の太郎高綱・伊賀良目の七郎高重等を相具し、
  石那坂の上に陣す。隍を堀り逢隈河の水をその中に懸け入れ、柵を引き石弓を張り、
  討手を相待つ。爰に常陸入道念西の子息常陸の冠者為宗・同次郎為重・同三郎資綱・
  同四郎為家等、潛かに甲冑を秣の中に相具し、伊達郡澤原の辺に進出し、先登の矢石
  を発つ。佐藤庄司等死を争い挑戦す。為重・資綱・為家等疵を被る。然れども為宗殊
  に命を忘れ攻戦するの間、庄司已下宗たる者十八人の首、為宗兄弟これを獲て、阿津
  賀志山の上経岡に梟すなりと。今日早旦、鎌倉に於いて、専光房二品の芳契に任せ、
  御亭の後山に攀じ登り、梵宇の営作を始む。先ず白地に仮柱四本を立て、観音堂の号
  を授く。これ御進発の日より二十日たるべきの由、御旨を蒙ると雖も、夢想の告げに
  依って此の如しと。而るに時刻自ずと阿津賀志山箭合せに相当たる。奇特と謂うべき
  かと。
 

8月9日 丙申
  夜に入り、明旦阿津賀志山を越え、合戦を遂ぐべきの由これを定めらる。爰に三浦の
  平六義村・葛西の三郎清重・工藤の小次郎行光・同三郎祐光・狩野の五郎親光・藤澤
  の次郎清近、河村千鶴丸(年十三歳)以上七騎、潛かに畠山の次郎の陣を馳せ過ぎ、
  この山を越え先登に進まんと欲す。これ天曙の後、大軍と同時に険阻を凌ぎ難きが故
  なり。時に重忠郎従成清この事を伺い得て、主人に諫めて云く、今度の合戦に先陣を
  奉ること、抜群の眉目なり。而るに傍輩の争う所を見るに、温座し難からんか。早く
  彼の前途を塞ぐべし。然らずんば事の由を訴え申し、濫吹を停止し、この山を越えら
  るべしと。重忠云く、その事然るべからず。縦え他人の力を以て敵を退けると雖も、
  すでに先陣を奉るの上は、重忠の向かわざる以前に合戦するは、皆重忠一身の勲功た
  るべし。且つは先登に進まんと欲するの輩の事妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且
  つは独り抽賞を願うに似たり。ただ惘然を作すこと、神妙の儀なりと。七騎終夜峰嶺
  を越え、遂に木戸口に馳せ着く。各々名謁るの処、泰衡郎従部伴の籐八已下の強兵攻
  戦す。この間工藤の小次郎行光先登す。狩野の五郎命を殞す。部伴の籐八は六郡第一
  の強力者なり。行光相戦う。両人轡を並べ取り合い、暫く死生を争うと雖も、遂に行
  光の為誅せらる。行光彼の頸を取り鳥付に付け、木戸を差し登るの処、勇士二騎馬に
  離れ取り合う。行光これを見て、轡を廻らしその名字を問う。藤澤の次郎清近敵を取
  らんと欲するの由これを称す。仍って落ち合い、相共に件の敵を誅滅するの後、両人
  駕を安じ休息するの間、清近行光の合力に感ずるの余り、彼の息男を以て聟と為すべ
  きの由、楚忽の契約を成すと。次いで清重並びに千鶴丸等、数輩の敵を撃ち獲る。ま
  た親能猶子左近将監能直は、当時殊なる近仕として、常に御座右に候す。而るに親能
  兼日に宮六兼仗国平を招き、談りて云く、今度能直戦場に赴くの初めなり。汝扶持を
  加え合戦すべしてえり。仍って国平固くその約を守り、去る夜潛かに二品の御寝所の
  辺に推参し、能直(上に臥すなり)を喚び出す。これを相具し阿津賀志山を越え、攻
  戦するの間、佐藤の三郎秀員父子(国衡近親の郎等)を討ち取りをはんぬ。この宮六
  は長井齋藤別当實盛の外甥なり。實盛平家に属き、滅亡の後囚人として、始め上総権
  の介廣常に召し預けらる。廣常誅戮の後、また親能に預けらる。而るに勇敢の誉れ有
  るに依って、親能子細を申し、能直に付けしむと。
 

8月10日 丁酉
  卯の刻、二品すでに阿津賀志山を越え給う。大軍木戸口に攻め近づき、戈を建て箭を
  伝う。然れども国衡輙く敗傾し難し。重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・
  義連・景廉・清重等、武威を振るい身命を棄つ。その闘戦の声山野を響かせ郷村を動
  かす。爰に去る夜小山の七郎朝光並びに宇都宮左衛門の尉朝綱郎従紀権の守・波賀の
  次郎大夫已下七人、安籐次を以て山の案内者と為し、面々に甲を疋馬に負わせ、密々
  に御旅館を出て、伊達郡藤田の宿より会津の方に向かう。土湯の嵩・鳥取越等を越え、
  大木戸の上国衡後陣の山に攀じ登り、時の声を発し箭を飛ばす。この間城中太だ騒動
  し、搦手に襲来する由を称す。国衡已下の辺将、構え塞ぐに益無く、謀りを廻らすに
  力を失い、忽ちに以て逃亡す。時に天晴曙と雖も、霧に隔てらる。秋山の影暗く・朝
  路の跡滑かにて、両方を分けざるの間、国衡郎従等、網を漏れるの魚類これ多し。そ
  の中金剛別当の子息下須房の太郎秀方(年十三)残留し防戦す。黒駮馬額白髦に駕し
  陣す。その気色掲焉なり。工藤の小次郎行光馳せ並べんと欲するの刻、行光郎従籐五
  男相隔てて秀方に取り合う。この間顔面を見るに、幼稚の者なり。姓名を問うと雖も、
  敢えて詞を発せず。然れども一人留まるの條、子細有りと称し、これを誅しをはんぬ。
  強力の甚だしきこと若少に似ず。相争うの処、対揚良久しと。また小山の七郎朝光金
  剛別当を討つ。その後退散の歩兵等、泰衡の陣に馳せ向かう。阿津賀志山の陣大敗す
  るの由これを告ぐ。泰衡周章度を失い、逃亡し奥方に赴く。国衡また逐電す。二品そ
  の後を追わしめ給う。扈従軍士の中、和田の小太郎義盛先陣を馳せ抜け、昏黒に及び、
  芝田郡大高宮の辺に到る。西木戸の太郎国衡は、出羽道を経て大関山を越えんと欲す。
  而るに今彼の宮の前路右手の田畔を馳せ過ぐ。義盛これを追い懸け、返し合わすべき
  の由を称す。国衡名謁らしめ駕を廻らすの間、互いに弓手に相逢う。国衡十四束の箭
  を挟む。義盛十三束の箭を飛ばす。その矢国衡未だ弓を引かざる前、国衡の甲の射向
  の袖を射融し腕に中たるの間、国衡は疵の痛みに開き退く。義盛はまた殊なる大将軍
  を射るに依って、思慮を廻らし二の箭を構え相開く。時に重忠大軍を率い馳せ来たる。
  義盛国衡に隔てるの中、重忠門客大串の次郎国衡に相逢う。国衡の駕す所の馬は、奥
  州第一の駿馬(九寸)、高楯黒と号すなり。大肥満の国衡これに駕し、毎日必ず三箇
  度平泉の高山に馳せ登ると雖も、汗を降さざるの馬なり。而るに国衡義盛の二の箭を
  怖れ、重忠の大軍に驚き、道路を閣き深田に打ち入るの間、数度鞭を加うと雖も、馬
  敢えて上陸するに能わず。大串等いよいよ理を得て、梟首太だ速やかなり。また泰衡
  郎従等、金十郎・勾當八・赤田の次郎を以て大将軍と為し、根無藤の辺に城郭を構う
  の間、三澤安藤の四郎・飯富の源太已下猶追奔し攻戦す。凶徒更に雌伏の気無し。い
  よいよ烏合の群を結ぶ。根無藤と四方坂の中間に於いて、両方の進退七箇度に及ぶ。
  然るに以て金十郎討亡の後皆敗績す。勾當八・赤田の次郎已下生虜三十人なり。この
  所の合戦無為なるは、偏に三澤安藤の四郎の兵略に在るものなり。
  今日鎌倉に於いて、御台所御所中の女房数輩を以て、鶴岡百度詣で有り。これ奥州追
  討の御祈請なり。
 

8月11日 戊戌
  今日、二品船迫の宿に逗留し給う。この所に於いて重忠国衡の頸を献る。太だ御感の
  仰せを蒙るの処、義盛御前に参進し、申して云く、国衡は義盛の箭に中たり亡命する
  の間、重忠の功に非ずと。重忠頗る咲い申して云く、義盛の口状髣髴と謂うべし。誅
  せしむの支證何事ぞや。重忠頸を獲て持参するの上は、疑う所無からんかと。義盛重
  ねて申して云く、頸の事は勿論なり。但し国衡の甲は、定めて剥ぎ取らるるか。彼の
  甲を召し出され実否を決せらるべし。その故は、大高宮の前田の中に於いて、義盛と
  国衡と互いに弓手に相逢う。義盛の射る所の箭国衡に中たりをはんぬ。その箭の孔は、
  甲の射向の袖二三枚の程、定めてこれ在るか。甲の毛は紅なり。馬は黒毛なりと。茲
  に因って、件の甲を召し出さるるの処、先ず紅威なり。御前に召し寄せこれを覧るに、
  射向の袖三枚、聊か後方に寄り、射融すの跡掲焉なり。殆ど鑿を通すが如し。時に仰
  せに曰く、国衡に対し、重忠矢を発せざるかてえり。重忠矢を発せざるの由を申す。
  その後是非に付いて御旨無し。これ件の箭の跡他に異なるの間、重忠の箭に非ず。て
  えれば、義盛の矢の條勿論か。凡そ義盛の申す詞始終符合し、敢えて一失無し。但し
  重忠はその性清潔に稟け、詐偽無きを以て本意と為すものなり。今度の儀に於いては、
  殊に奸曲を存ぜざるか。彼の時郎従先を為し、重忠後に在り。国衡兼ねて矢に中たる
  事、一切これを知らず。ただ大串彼の頸を持ち来たり、重忠に與うの間、討ち獲るの
  由を存ず。物儀に乖かざるか。
 

8月12日 己亥
  一昨日合戦の時、千鶴丸若少の齢にして敵陣に入り、矢を発つこと度々に及ぶ。また
  名謁りて云く、河村千鶴丸と。二品始めて今その号を聞き給う。仍って御感の余り、
  今日船迫の駅に於いて、その父を尋ね仰せらる。小童山城権の守秀高四男たるの由こ
  れを申す。これに依って御前に於いて俄に首服を加え、河村の四郎秀清と号す。加冠
  は加々美の次郎長清なり。この秀清は、去る治承四年石橋合戦の時、兄義秀景親の謀
  叛に與せしむの後、牢籠するの処、母(二品の官女、京極の局と号す)相計りて暫く
  その号を隠し、休所の傍らに置く。而るに今度御進発の時、譜第の勇士と称し、慇懃
  の吹挙を企てるの間御共に候し、忽ち兵略を顕わす。即ち佳運を開く者なり。晩景多
  賀の国府に着かしめ給う。また海道の大将軍千葉の介常胤・八田右衛門の尉知家等参
  会す。千葉の太郎胤正・同次郎師常・同三郎胤盛・同四郎胤信・同五郎胤通・同六郎
  大夫胤頼・同小太郎成胤・同平次常秀・八田の太郎朝重・多気の太郎・鹿嶋の六郎・
  真壁の六郎等、常胤・知家に相具し、各々逢隈の湊を渡り参上すと。
 

8月13日 庚子
  比企の籐四郎・宇佐美の平次等出羽の国に打ち入り、泰衡郎従田河の太郎行文・秋田
  の三郎致文等を梟首すと。今日、二品多賀の国府に休息せしめ給う。
 

8月14日 辛丑
  泰衡玉造郡に在るの由風聞す。また国府中の山上物見岡に陣を取るの由その告げ有り。
  縡両舌に亘り、賢慮未決と雖も、玉造に在るの儀、猶然るべきの間、多賀の国府より
  黒河を経て、彼の郡に赴かしめ給う。然れども物見岡を尋ねんが為、小山兵衛の尉朝
  政・同五郎宗政・同七郎朝光・下河邊庄司行平等を遣わす。仍って各々件の岡に馳せ
  向かう。相囲むの処、大将軍は、これより先に逐電し、その居所に幕ばかりを残し置
  く。その内相留まる郎従四五十人防戦すと雖も、朝政・行平等の武勇を以て、或いは
  梟首或いは生虜り、皆悉くこれを獲る。時に朝政云く、吾等は大道を経て、先路に於
  いて参会すべきか。行平云く、玉造郡の合戦は、継ぎの事たるべきか。早く追って彼
  の所に参るべしてえり。行平則ち鞭を揚げるの間、朝政等これに相具すと。
 

8月15日 壬寅
  今日鶴岡の放生会なり。去る月朔日これを行わるると雖も、式日たるに依って、故に
  以てその儀有り。筥根山の児童八人参上す。舞楽有り。長馬・流鏑馬例の如しと。

[島津家文書]
**源頼朝御教書
     (花押)
  あすは、こふのこなたにちむのはらといふところニ御すく候へし、いくさたちニハ、
  こふにはすくせすと申なり、かまへてひか事すな、あかうそ三郎を、やうやうニせん
  ニこひたるものヽついふくしたるなり、たうしハほうてう・庄司次郎ハ、けふのひく
  わんニいらす、しむへうなり、このくにハきはめてしむこくなり、かまへてかまへて
  らうせきすな、くしたるものともニ、みなふれまわすへし、けふらうせきしたるもの
  ともは、こさたあるなり、けふのひくわんニいらぬほとに、あすのすくにていりなん
  ハ、ゐこんのことにてあるへきなり、
    八月十五日          盛時(奉る)
  庄司次郎殿
 

8月18日 乙巳
  籐九郎盛長預かる囚人筑前房良心、盛長に相具し下向す。而るを去る十四日、物見岡
  に於いて合戦するの間、泰衡郎従等を討つ。仍ってその功に募り厚免せしむの由仰せ
  出さる。これ刑部卿忠盛朝臣四代の孫、筑前の守時房男なり。屋嶋前の内府誅戮の後、
  召し預けらるる所なり。僧たりと雖も、武芸に達せしむの間、今度これを相伴うと。
 

8月20日 丁未
  卯の刻、二品玉造郡に赴かしめ給う。則ち泰衡の多加波々城を圍み給うの処、泰衡兼
  ねて城を去り逃亡す。自から残留の郎従等手を束ねて帰降す。この上は、葛岡郡に出
  て平泉に赴き給う。戌の刻、御書を先陣の軍士等の中に遣わさる。所謂小山の輩並び
  に三浦の十郎・和田の太郎・小山の小四郎・畠山の次郎・和田の三郎、武蔵の国党の
  者に至るまで、面々この御書を取りこれを拝見せしむ。旨趣を得て、合戦の計を廻ら
  すべきの由これを載せらる。その趣、各々敵を追い津久毛橋の辺に到るの時、凶徒等
  のその所を避け、平泉に入るに於いては、泰衡城を構え勢を屯し相待つか。然れば僅
  か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに
  敗績の敵なり。侍一人と雖も無害の様、用意を致すべしてえり。

[薩藩旧記]
**源頼朝書状
  これにもつかせ給はんするに候、ほうてう・みうらの十郎・わたの太郎・さうまの二
  郎・おやまたのもの・おくかたせんちんしたるものとん、わたの三郎ひとりももれす、
  むさしのたうヽヽのものとも、このけちをたかへす、しつかによすへし、廿一日ニひ
  らいつみへつかむといふことあるへからす、さうなをはせても、かたきをおいなひけ
  ても、いかてかをいつくへき、たヽつくもはしのへんまてを、いつくことやあるとて
  こそ、おヽせたひつれ、かまへて、せい二万きを、まかりそろうへし、あんないさと
  も申せはとて、あふなきことすへからす、いかさまにも、ものさはかしく、こヽろこ
  ヽろにはすることあるへからす、この御ふみをひとりみてハ、したいニやりヽヽして、
  おのヽヽ御返事を申へし、かさねて二万きをまかりそろうへし、
    八月二十日いぬのとき
 

8月21日 戊申 甚雨暴風
  泰衡を追って、岩井郡平泉に向かわしめ給う。而るに泰衡郎従、栗原・三迫等に於い
  て要害を築き鏃を研ぐと雖も、攻戦強盛たるの間、防ぎ奉るに利を失い、宗たるの者
  若次郎は、三浦の介の為誅せらる。同九郎大夫は、所の六郎朝光これを討ち獲る。こ
  の外の郎従悉く以て誅戮す。残る所の三十許輩これを生虜る。爰に二品松山道を経て
  津久毛橋に到り給う。梶原の平二景高、一首の和歌を詠むの由これを申す。
   みちのくのせいはみかたにつくもはし、わたしてかけんやすひらかくひ
  祝言の由御感有りと。泰衡平泉の館を過ぎ猶逃亡す。縡急にして自宅の門前を融ると
  雖も、暫時逗留するに能わず。纔かに郎従ばかりを件の館内に遣わし、高屋・宝蔵等
  に放火す。杏梁桂柱の構え、三代の旧跡を失う。麗金昆玉の貯え、一時の新灰と為す。
  倹は存え奢は失う。誠に以て慎むべきものかな。


8月22日 己酉 甚雨
  申の刻、泰衡の平泉の館に着御す。主はすでに逐電し、家はまた烟と化す。数町の縁
  辺、寂寞として人無し。累跡の郭内、いよいよ滅して地のみ有り。ただ颯々たる秋風
  幕に入るの響きを送ると雖も、簫々たる夜雨窓を打つの声を聞かず。但し坤角に当た
  り、一宇の倉廩有り。余焔の難を遁る。葛西の三郎清重・小栗の十郎重成等を遣わし
  これを見せしめ給う。沈紫檀以下唐木の厨子数脚これに在り。その内に納める所は、
  牛玉・犀角・象牙の笛・水牛の角・紺瑠璃等の笏・金沓・玉幡・金華鬘(玉を以てこ
  れを餝る)・蜀江錦の直垂・不縫帷・金造の鶴・銀造の猫・瑠璃の灯爐・南廷百(各
  々金の器に盛る)等なり。その外錦繍綾羅、愚筆余算に計え記すべからざるものか。
  象牙の笛・不縫帷は清重に賜う。玉幡・金華鬘は、また重成望み申すに依って同じく
  これを給う。氏寺を荘厳すべきの由申すが故なり。彼の瞽叟の牛羊は、不義の名を顕
  わすと雖も、この武兵の金玉は、作善の因に備えんと擬す。財珍望みに係わること、
  古今事を異にするものかな。
 

8月23日 庚戌
  飛脚(時澤)を京都に発せらる。右武衛に遣わさるるの御消息に云く、八月八日・同
  十日両日合戦を遂げ、昨日(二十二日)平泉に着かしめ候いをはんぬ。而るに泰衡深
  山に逃げ入るの由その聞こえ候の間、重ねて追い継ぎ候わんと欲すなりと。
 

8月25日 壬子
  泰衡逐電するの間、軍兵を方々に分け遣わし、これを捜し尋ねらるると雖も、未だそ
  の勢の存亡を知らず。仍って猶奥方に追奔すべきの由その定め有り。今日千葉の六郎
  大夫胤頼を衣河の館に遣わし、前の民部少輔基成父子を召す。胤頼彼等を生虜らんと
  欲するの処、基成兵具を取るに及ばず、手を束ねて降人と為る。然る間これを相具し
  参上す。子息三人同じく父に従うと。
 

8月26日 癸丑
  日の出の程、疋夫一人御旅館の辺に推参し、一封の状を投げ入れ逐電す。その行方を
  知らず。諸人これを怪しむ。召覧するの処、表書きに云く、進上鎌倉殿(侍所)泰衡
  敬白と。状中に云く、伊豫国司の事は、父入道扶持し奉りをはんぬ。泰衡全く濫觴を
  知らず。父亡ぶの後、貴命を請け誅し奉りをはんぬ。これ勲功と謂うべきか。而るに
  今罪無くして忽ち征伐有り。何故ぞや。これに依って累代の在所を去り山林に交ゆ。
  尤も以て不便なり。両国はすでに御沙汰たるべきの上は、泰衡に於いては免除を蒙り、
  御家人に列せんと欲す。然らずんば、死罪を減ぜられ遠流に処せらるべし。もし慈恵
  を垂れ、御返報有らば、比内郡の辺に落とし置かるべし。その是非に就いて、帰降走
  参すべきの趣これに載す。親能御前にて読み申す。これに依って重々の沙汰有り。試
  みに御返報を比内の辺に捨て置き、潛かに勇士一両をその所に付け、御書を取らんが
  為窺い来たる者有るの時搦め取り、泰衡の在所を問わるべきの由、實平これを申し行
  うと雖も、その儀に及ばず。書を比内郡に置くべきの由、泰衡言上するの上は、軍士
  等各々彼の郡内を捜し求むべきの旨仰せ下さると。