1189年 (文治5年 己酉)
 
 

9月2日 己未
  平泉を出て、岩井郡厨河の辺に赴かしめ給う。これ泰衡の隠れ住む所を相尋ねんが為
  なり。また祖父祖父将軍朝敵を追討するの比、十二箇年の間所々に合戦す。勝負を決
  せず年を送るの処、遂に件の厨河の柵に於いて貞任等の首を獲る。曩時の佳例に依っ
  て、当所に到り、泰衡を討ちその頸を獲るべきの由、内々思案せしめ給うと。


9月3日 庚申
  泰衡数千の軍兵に圍まれ、一旦の命害を遁れんが為、隠れること鼠の如く退ぞくこと
  貎に似たり。夷狄嶋を差し、糠部郡に赴く。この間、相恃む数代の郎従河田の次郎、
  肥内郡贄の柵に到るの処、河田忽ち年来の旧好を変じ、郎従等をして泰衡を相圍まし
  め梟首す。この頸を二品に献らんが為、鞭を揚げ参向すと。
   陸奥押領使藤原朝臣泰衡(年二十五)
   鎮守府将軍兼陸奥の守秀衡次男、母前の民部少輔藤原基成女、文治三年十月、父の
   遺跡を継ぎ、出羽陸奥の押領使と為る。六郡を管領す。
 

9月4日 辛酉
  志波郡に着御す。而るに泰衡親昵俊衡法師この事に驚き、当郡内比爪の館を焼失し逐
  電す。奥方に赴くと。仍ってこれを追討せんが為、三浦の介義澄並びに義連・義村等
  を遣わしをはんぬ。今日、二品陣岡蜂社に陣せしめ給う。而るを北陸道の追討使能員
  ・實政等、出羽の国の狼唳を靡かせ参加するの間、軍士二十八万四千騎(但し諸人の
  郎従等を加うなり)。面々自旗を打ち立て、各々広々に倚せ置く間、秋尾花色を混え、
  晩頭月勢を添ゆと。
 

9月6日 癸亥
  河田の次郎主人泰衡の頸を持ち陣岡に参る。景時をしてこれを奉らしむ。義盛・重忠
  を以て実検を加えらるるの上、囚人赤田の次郎を召し見せらるるの処、泰衡の頸の條、
  異儀無きの由を申す。仍ってこの頸を義盛に預けらる。また景時を以て河田に仰せ含
  められて云く、汝が所為、一旦功有るに似たりと雖も、泰衡を獲るの條、元より掌中
  に在る上は、他の武略を仮るべきに非ず。而るに譜第の恩を忘れ主人の首を梟す。科
  すでに八逆を招くの間、抽賞し難きに依って、後輩を懲らしめんが為、身の暇を賜う
  所なりてえり。則ち朝光に預け、斬罪に行わると。その後泰衡の首を懸けらる。康平
  五年九月、入道将軍家(頼義)、貞任の頸を獲るの時、横山野大夫経兼の奉りとして、
  門客貞兼を以て件の首を請け取り、郎従惟仲をしてこれを懸けしむ(長八寸の鉄釘を
  以て、これを打ち付く)。件の例に追い経兼の曾孫小権の守時廣に仰す。時廣子息時
  兼を以て、景時の手より泰衡の首を請け取らしめ、郎従惟仲の後胤七太廣綱を召し出
  しこれを懸けしむと(釘彼の時の例に同じ)。
 

9月7日 甲子
  宇佐美の平次實政泰衡郎従由利の八郎を生虜り、相具して陣岡に参上す。而るに天野
  右馬の允則景生虜るの由これを相論す。二品行政に仰せ、先ず両人の馬並びに甲の毛
  等を注し置かるるの後、実否を囚人に尋ね問うべきの旨、景時に仰せらる。景時(白
  の直垂・折烏帽子を着す。紫革の烏帽子を懸く)由利に立ち向かいて云く、汝は泰衡
  郎従の中その号有る者なり。真偽強ち矯餝を構うべからざるか。実正に任せ言上すべ
  きなり。何色の甲を着す者、汝を生虜るやと。由利忿怒して云く、汝は兵衛の佐殿の
  家人か。今の口状過分の至り、喩えを取るに物無し。故御館は秀郷将軍嫡流の正統と
  して、已上三代鎮守府将軍の号を汲む。汝の主人猶此の如きの詞を発すべからず。矧
  やまた汝と吾とは対揚の処、何れに勝劣有らんや。運尽きて囚人と為るは、勇士の常
  なり。鎌倉殿の家人を以て奇怪を見るの條、甚だ謂われ無し。故に問う事、更に返答
  に能わずと。景時頗る面を赫らめ、御前に参り申して云く、この男悪口の外、別して
  言語無きの間、糺明せんと欲せずてえり。仰せに云く、景時無礼を現すに依って、囚
  人これを咎むるか。尤も道理なり。早く重忠これを召し問うべしてえり。仍って重忠
  手づから敷皮を取り、由利の前に持ち来たりこれに坐せしむ。礼を正して誘いて云く、
  弓馬に携わる者、怨敵として囚わるは、漢家・本朝の通規なり。必ずしもこれを恥辱
  と称すべからず。就中、故左典厩永暦に横死有り。二品また囚人として六波羅に向か
  わしめ給う。結句豆州に配流す。然れども佳運遂に空しからず。天下を拉り給う。貴
  客今生虜の号を蒙らしむと雖も、始終沈淪の趣を貽すべからざるか。奥六郡の内、貴
  客は武将の誉れを備うの由、兼ねて以てその名を聞くの間、勇士等勲功を立てんが為、
  客を搦め獲るの旨、互いに相論に及ぶか。仍って甲と云い馬の毛付と云い、彼等が浮
  沈この事に究むべきものなり。何色の甲を着す者の為生虜られ給うや。分明にこれを
  申さるべしてえり。由利云く、客は畠山殿か。殊に礼法を存じ、以前の男の奇怪に似
  ず。尤もこれを申すべし。黒糸威の甲を着し、鹿毛の馬に駕す者、先ず予を取り引き
  落とす。その後追い来たる者、嗷々としてその色目を分たずと。重忠帰参せしめ、具
  にこの趣を披露す。件の甲馬は實政のなり。すでに御不審を開きをはんぬ。次いで仰
  せに云く、この男の申状を以て心中を察するに、勇敢の者なり。尋ねらるべき事有り。
  御前に召し進すべしてえり。重忠またこれを相具し参上す。御幕を上げられこれを覧
  る。仰せに云く、己が主人泰衡は、威勢を両国に振るうの間刑を加うの條、難儀の由
  思し食すの処、尋常の郎従無きかの故、河田の次郎一人の為誅せられをはんぬ。凡そ
  両国を管領し、十七万騎の貫首たりながら、百日相支えず、二十箇日の内、一族皆滅
  亡す。言うに足らざる事なり。由利申して云く、尋常の郎従少々相従うと雖も、壮士
  は所々の要害に分け遣わす。老軍は行歩進退ならざるに依って不意に自殺す。予が如
  き不肖の族は、また生虜りに為るの間、最後に相伴わざるものなり。抑も故左馬の頭
  殿は、海道十五箇国を管領せしめ給うと雖も、平治逆乱の時、一日を支え給わずして
  零落す。数万騎の主たりと雖も、長田庄司の為輙く誅せられ給う。古と今と甲乙如何。
  泰衡の管領せらるる所は、僅かに両州の勇士なり。数十箇日の間賢慮の一篇を悩まし
  奉る。不覚に処せしめ給うべからざるかと。二品重ねて仰せ無く幕を垂れらる。由利
  は、重忠に召し預けられ、芳情を施すべきの由仰せ付けらると。
 

9月8日 乙丑
  安達の新三郎飛脚として上洛す。これ合戦の次第を師中納言に付けらるるに依ってな
  り。主計の允行政御消息を書く。その状に云く、
   奥州の泰衡を攻めんが為、去る七月十九日鎌倉を打ち立つ。同二十九日白河関を越
   え打ち入る。八月八日厚加志楯前に於いて合戦し、敵を靡かせをはんぬ。同十日厚
   加志山を越え、山口に於いて、秀衡法師嫡男西城戸の太郎国衡大将軍として向かい
   逢い合戦す。即ち国衡を討ち取りをはんぬ。而るに泰衡多賀の国府より以北、玉造
   郡内高波々ト申す所に、城郭を構え相待つ。二十日押し寄せ候の処、相待たず件の
   城を落ちをはんぬ。この所より平泉の間五六箇日の道に候。即ち追い譴む。泰衡郎
   従等途中に於いて相禦ぐ。然れども宗たるの輩等を打ち取り、平泉に寄せるの処、
   泰衡二十一日に落ちをはんぬ。頼朝二十二日申の刻平泉に着す。泰衡は一日前に立
   ち逃げ行く。猶追い譴め、今月三日打ち取り候いをはんぬ。須くその首を進すべく
   候と雖も、遼遠の上、指せる貴人に非ず。且つは相伝の家人なり。仍って進すに能
   わず候。また出羽の国に於いて八月十三日合戦す。猶以て敵を討ち候いをはんぬ。
   この旨を以て洩れ言上せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。
     九月八日           頼朝
   進上 師中納言殿
 

9月9日 丙寅
  鶴岡八幡宮臨時祭なり。流鏑馬已下例の如し。今日、二品猶蜂社に逗留す。而るにそ
  の近辺に寺有り、名高水寺と曰う。これ称徳天皇の勅願として、諸国に一丈の観自在
  菩薩像を安置せらるるの随一なり。彼の寺の住侶禅修房以下十六人、この御旅店に参
  訴する事有り。その故は、御埜宿の間、御家人等の僮僕多く以て当寺に乱入し、金堂
  の壁板十三枚を放ち取りをはんぬ。冥慮尤も測り難し。早く糺明せらるべしてえり。
  二品殊に驚歎し給い、則ち相尋ねるべきの旨景時に召し仰す。景時尋ね糺すの処、宇
  佐美の平次が僕従の所為なり。仍ってこれを召し進し、衆徒の前に於いて刑法を加う。
  彼の欝陶を散ぜしむべきの由重ねて仰せらるるの間、件の犯人の左右の手を切らしめ、
  板面に於いて釘を以てその手を打ち付けしめをはんぬ。二品寺中興隆の事に就いて所
  望有るや否やの由仰せらる。僧侶申して云く、愁訴忽ち以て裁断を蒙る。この上は所
  望無しと称し寺に帰りをはんぬ。また比企の籐内朝宗を岩井郡に遣わさる。これ彼の
  郡に於いて、清衡・基衡・秀衡等数宇の堂塔を建立するの由聞こし食さるるに依って、
  泰衡を征せらるると雖も、僧侶に至りては牢籠の儀有るべからず。且つは仏閣の員数
  を注進すべし。それに就いて仏聖の灯油田を計り充てらるべきの旨、件の寺々に仰せ
  遣わさるるが故なり。晩に及び、右武衛の使者陣岡に到着す。持参する所は去る七月
  十九日の宣旨なり。泰衡を追討すべきの由なり。院宣を副え下されて云く、奥州追討
  の事、一旦制止せらると雖も、重ねて仰せ計り申さるべきの旨尤も然るべきの由と。
  件の使者申して云く、この宣旨は、同二十四日奉行蔵人大輔師中納言に送る。同二十
  六日師卿より武衛に送り献らる。同二十八日出京すと。
     文治五年七月十九日      宣旨
   陸奥の国住人泰衡等、梟心を性に稟け、雄を辺境に張る。或いは賊徒を容穏して猥
   りに野心に同じ、或いは詔使を対捍して朝威を忘るが如し。結構の至り、すでに逆
   節に渉るものか。しかのみならず奥州・羽州の両国に掠籠し、公田・庄田の乃貢を
   輸らず。恒例の佛仏の事、納官封家の諸済物、その勤め空しく忘れ、その用欠けん
   と欲す。奸謀一に非ず、厳科遁れ難し。宜しく正二位源朝臣に仰せ、その身を征伐
   し、永く後濫を断つべし。
                    蔵人宮内大輔藤原家實(奉る)
 

9月10日 丁卯
  鶴岡の末社熱田社祭なり。流鏑馬(十騎)・競馬(三番)・相撲(十番)なり。今日、
  奥州関山中尊寺経蔵の別当大法師心蓮、二品の御旅店に参上す。愁い申して云く、当
  寺は経蔵以下仏閣・塔婆、清衡これを草創すと雖も、忝なくも鳥羽院の御願所、年序
  これ尚しく、寺領を寄付せらる。また御祈祷料を募り置かるる所なり。経蔵は金銀泥
  行交りの一切経を納めらる。事に於いて厳重の霊場なり。然れば始終牢籠無きの様定
  めらるべきか。次いで当国合戦の間、寺領の土民等怖畏を成し逐電す。早く安堵せし
  むべきの旨仰せ下されんと欲すと。則ち件の僧を御前に召し、清衡・基衡・秀衡三代
  の間建立する所の寺塔の事、これを尋ね聞こし食す。分明に報じ申すの上、巨細を注
  進すべきの由言上す。仍って先ず経蔵領、当寺境の四至(東は鎌懸、南は岩井河、西
  は山王窟、北は峯山堂馬坂なり)御奉免状を下され、逐電の土民等本所に還住すべき
  の由仰せ下さると。散位親能これを奉行す。

[陸奥中尊寺文書]
**親義奉書
  鳥羽院御願関山中尊寺御経蔵骨寺内籠居の雑人等の事、早く彼の雑人等に於いては、
  本住所に還り、安堵の思いを成すべきなり。但し骨寺内堺は、東は鎌懸、南は岩井川、
  西は山王岩屋、北は峯山堂の末限馬坂に限り、惣て境に於いては水境に限るべきなり。
  依って仰せ下さるる所、執達件の如し。
    文治五年九月十日        親義(花押)
 

9月11日 戊辰
  平泉内の寺々の住侶僧、源忠已講・心蓮大法師・快能等参上す。仍って寺領の事、清
  衡の時勅願に募り置く一圓は御祈祷料所と為すの上、向後また相違有るべからざるの
  由御下文を賜う。寺領は、縦え荒廃の地たりと雖も、地頭等の妨げを致すべからざる
  の旨これを載せらると。今日、陣岡を立たしめ給う。今に至りすでに七箇日この所に
  逗留し給うものなり。而るに高水寺鎮守は、走湯権現を勧請し奉る。その傍らにまた
  小社有り。大道祖と号す。これ清衡の勧請なり。この社の後に大槻木有り。二品彼の
  樹下に莅み、走湯権現に奉ると称し、上箭の鏑二を射立てしめ給う。これより厨河の
  柵は、二十五里の行程たるに依って、未だ黄昏に属かず件の館に着御すと。
 

9月12日 己巳
・ 岩井郡厨河に於いて、この所の坤角兼仗次の波気を点じ、御館に定めらる。今日、工
  藤の小次郎行光盃酒・椀飯を献る。これ当郡に於いては、行光拝領すべきに依って、
  別して以て仰せ下さるるの間、この儀に及ぶと。
 

9月13日 庚午
  この間両国騒動に依って、庶民究屈に及び、或いは子孫を失い或いは夫婦に別れ、残
  る所また山林に交り、空しく雲稼を抛つ。仍ってこれを召し聚められ、本所に安堵す
  べきの旨仰せ含めらる。しかのみならず宿老の輩に於いては、面々綿衣一領・龍蹄一
  疋を賜う。また由利の八郎恩免を預かる。これ勇敢の誉れ有るに依ってなり。但し兵
  具を聴されずと。
 

9月14日 辛未
  二品奥州・羽州両国の省帳・田文已下の文書を求めしめ給う。而るに平泉の館炎上す
  るの時焼失すと。その巨細を知ろし食し難し。古老に尋ねらるるの処、奥州の住人豊
  前の介實俊並びに弟橘籐五實昌、故実を存ずるの由申すの間、召し出され子細を問わ
  しめ給う。仍って件の兄弟、暗に両国の絵図並びに定まる諸郡の券契を注進す。郷里
  ・田畠・山野・河・海、悉く以てこの中に見るなり。余目三所を注し漏らすの外更に
  犯失無し。殊に御感の仰せを蒙る。則ち召し仕わるべきの由と。
 

9月15日 壬申
  樋爪の太郎俊衡入道並びに弟五郎季衡、降人として厨河に参る。俊衡子息三人(大田
  の冠者師衡・次郎兼衡・同河北の冠者忠衡)を具す。季衡子息一人(字新田の冠者経
  衡)を相具す。二品彼等を召し出しその躰を覧る。俊衡は齢すでに六旬に及び、頭は
  また繁霜を刷う。誠に老羸の容貌、尤も御憐愍に足るなり。八田右衛門の尉知家に召
  し預けらる。知家これを相具し休所に帰る。而るに俊衡法華経を読誦するの外一言を
  発せず。知家本より仏法を崇敬するの士なり。仍って随喜甚深なりと。
 

9月16日 癸酉
  知家御前に参進し、俊衡入道経を転読する事を申す。二品往日よりこの経を持たしめ
  給うの間、罪名を定められず。本所(比爪)に安堵すべきの由下知せしめ給う。これ
  併しながら十羅刹の照鑑に優じ奉るの旨仰せ含めらると。
 

9月17日 甲戌
  清衡已下三代造立の堂舎の事、源忠已講・心蓮大法師等これを注し献る。親能・朝宗
  これを覧る。二品忽ち御信心を催す。仍って寺領悉く以て寄付せられ、御祈祷に募ら
  しむべしと。則ち一紙の壁書を下され、圓隆寺南大門に押すべしと。衆徒等これを拝
  見し、各々止住の志を全うすと。その状に曰く、
   平泉内の寺領に於いては、先例に任せ寄付する所なり。堂塔縦え荒廃の地たりと雖
   も、仏聖燈油の勤めに至りては、地頭等その妨げを致すべからざるものなりてえり。
  寺塔已下注文(衆徒これを注し申す)に曰く、
   一、関山中尊寺の事
    寺塔四十余宇、禅坊三百余宇なり。
    清衡六郡を管領するの最初これを草創す。先ず白河関より外浜に至るまで、二十
    余箇日の行程なり。その路一町別に笠卒都婆を立て、その面に金色の阿弥陀像を
    図絵す。当国の中心を計り、山の頂上に於いて一基の塔を立つ。また寺院の中央
    に多寶塔有り。釈迦・多寶像を左右に安置す。その中間に関路を開き、旅人往還
    の道と為す。次いで釈迦堂に一百余躰の金容を安ず。即ち釈迦像なり。次いで両
    界堂両部の諸尊は皆木造にして、皆金色なり。次いで二階大堂(大長寿院と号す、
    高さ五丈。本尊は三丈・金色の弥陀像。脇士は九躰・同丈六なり)。次いで金色
    堂(上下・四壁・内殿皆金色なり。堂内に三壇を構え、悉く螺銅なり。阿弥陀三
    尊・二天・六地蔵、定朝これを造る)。鎮守は即ち南方に日吉社を崇敬し、北方
    に白山宮を勧請す。この外宋本の一切経蔵、内外陣の荘厳、数宇の楼閣注進に遑
    あらず。凡そ清衡在世三十三年の間、吾が朝延暦・園城・東大・興福等の寺より、
    震旦天台山に至るまで、毎寺千僧を供養す。入滅の年に臨み、俄に始めて逆善を
    修す。百箇日結願の時に当たり、一病無くして合掌し仏号を唱え、眠る如く閉眼
    しをはんぬ。
   一、毛越寺の事
    堂塔四十余宇、禅房五百余宇なり。
    基衡これを建立す。先ず金堂圓隆寺と号す。金銀を鏤め、紫檀赤木等を継ぎ、万
    宝を尽くし衆色を交ゆ。本仏は薬師の丈六、同十二神将(雲慶これを作る。仏・
    菩薩像、玉を以て入眼の事、この時例を始む)を安ず。講堂・常行堂・二階惣門
    ・鐘楼・経蔵等これ在り。九條関白家御自筆を染め額を下さる。参議教長卿堂中
    の色紙形を書すなり。この本尊建立の間、基衡その支度を仏師雲慶に乞う。雲慶
    上中下の三品を注出す。基衡中品を領状せしめ、功物を仏師に送る。所謂圓金百
    両・鷲羽百尻・七間々中径の水豹皮六十余枚・安達絹千疋・希婦細布二千端・糠
    部の駿馬五十疋・白布三千端・信夫毛地摺千端等なり。この外山海の珍物を副え
    るなり。三箇年終功の程、上下向の夫課駄、山道・海道の間片時も絶えること無
    し。また別禄と称し、生美絹を船三艘に積み送るの処、仏師抃躍の余り、戯論に
    云く、喜悦極まり無しと雖も、猶練絹大切なりと。使者奔り帰りこの由を語る。
    基衡悔い驚き、また練絹を三艘に積み送り遣わしをはんぬ。此の如き次第、鳥羽
    禅定法皇の叡聞に達し、彼の仏像を拝せしめ御うの処、更に比類無し。仍って洛
    外に出すべからざるの由宣下せらる。基衡これを聞き、心神度を失い、持佛堂に
    閉じ籠もり、七箇日夜水漿を断ち祈請す。子細を九條関白家に愁い申すの間、殿
    下天気を伺わしめ給い、勅許を蒙り、遂にこれを安置し奉る。次いで吉祥堂の本
    尊は、洛陽補陀洛寺の本尊(観音)を模し奉り、生身の由託語有り。厳重の霊像
    たるの間、更に丈六の観音像を建立し、その内に件の本尊を奉納するなり。次い
    で千手堂、木像の二十八部衆、各々金銀を鏤めるなり。鎮守は、惣社金峰山、東
    西に崇め奉るなり。次いで嘉勝寺(未だ終功の以前、基衡入滅す。仍って秀衡こ
    れを造畢す)、四壁並びに三面扉、法華経二十八品の大意を彩画す。本仏は薬師
    の丈六なり。次いで観自在王院(阿弥陀堂と号す)、基衡妻(宗任女)の建立な
    り。四壁に洛陽の霊地名所を図絵す。仏壇は銀なり。高欄は磨金なり。次いで小
    阿弥陀堂、同人の建立なり。障子色紙形は、参議教長卿筆を染める所なり。
   一、無量光院(新御堂と号す)の事
    秀衡これを建立す。その堂内四壁の扉に観経の大意を図絵す。しかのみならず秀
    衡自ら狩猟の躰を図絵す。本仏は阿弥陀の丈六なり。三重の宝塔・院内の荘厳、
    悉く以て宇治平等院を模す所なり。
   一、鎮守の事
    中央に惣社、東方に日吉・白山両社、南方に祇園社・王子諸社、西方に北野天神
    ・金峰山、北方に今熊野・稲荷等の社なり。悉く以て本社の儀を模す。
   一、年中恒例の法会の事
    二月常楽会。三月千部会・一切経会。四月舎利会。六月新熊野会・祇園会。八月
    放生会。九月仁王会。
    講読師・請僧、或いは三十人、或いは百人、或いは千人。舞人三十六人。楽人三
    十六人なり。
   一、両寺一年中問答講の事
    長日延命講・弥陀講。月次問答講。正五九月最勝十講等なり。
   一、館の事(秀衡)
    金色堂の正方、無量光院の北に並べ宿館(平泉の館と号す)を構う。西木戸に嫡
    男国衡の家有り。同四男隆衡の宅これに相並ぶ。三男忠衡の家は泉屋の東に在り。
    無量光院の東門に一郭(加羅御所と号す)を構う。秀衡常の居所なり。泰衡これ
    を相継ぎ居所と為す。
   一、高屋の事
    観自在王院南大門の南北路、東西に於いて数十町に及び、倉町を造り並ぶ。また
    数十宇の高屋を建つ。同院西面の南北に数十宇の車宿有り。
 

9月18日 乙亥
  秀衡四男本吉の冠者高衡降人として、下河邊庄司これを召し進す。泰衡一方の後身熊
  野別当、上総の介義兼これを召し進す。凡そ残党悉く以て今日これを獲給うなり。ほ
  ぼ先規を考えるに、康平五年九月十七日、入道将軍(頼義)この廚河の柵に於いて、
  貞任・宗任・千代童子等の頸を獲給う。彼の佳例に叶い、今宿望を達し給う。これ等
  の子細、飛脚を差し御消息を京都に奉らる。その状に云く、
   泰衡を追討する事、先日脚力を以て言上せしめ候いをはんぬ。而るにその党類比爪
   の俊衡法師・同五郎季衡等、比爪の館を焼きて奥方に逃げ籠もり候を、即ち追い譴
   め候て、厨河と申す館まで罷り着き候の間、俊衡法師並びに季衡等降人として出来
   し候。折紙に注し謹んでこれを進上す。その中俊衡法師は、年歯高く候の上、法華
   経を受持せしむに依って、本住所を宛て給いて安堵せしめ候所なり。その外の輩皆
   召し具して鎌倉へ上道すべく候。而るをその後京都に進すべく候か。また相計り候
   て、関東の住人なんどに預け給うべく候か。何様沙汰せしむべく候や。来月内に鎌
   倉に罷り着くべく候。また重ねて鎌倉より言上せしむべく候なり。この旨を以て洩
   れ達せしめ給うべく候。頼朝恐々謹言。
     九月十八日          頼朝
   進上 師中納言殿
   私に言上す。
   今年ばかりは暫くと御制止候を、軍勢を催し黙止すべからざるの間、左右無く打ち
   入り候て、此の如く泰衡を追討せしめ候いをはんぬ。宣旨の候へば、左右に及ばず
   候へ共、御気色恐れ思い給い候。また公卿僉議も候いけると承り候。内々御気色仰
   せ給うべく候。当時は恐れ入り候なり。抑も前の民部少輔基成並びに息男三人召し
   取り候所なり。彼の基成指せる武士に非ずと雖も、平家の時と云いこの時と云い、
   偏に朝威を軽んずるの者に候。而るにその交名折紙に載せず候事は、指せる武士に
   非ず候が故なり。謹言。
  折紙状に云く、
   降人
    本吉の冠者高衡(秀衡法師四男)
    比爪の俊衡法師男三人(大田の冠者師衡・次郎兼衡・河北の冠者忠衡)
    比爪の五郎季衡(俊衡法師舎弟)、男新田の冠者経衡
   件の輩一人も漏らさず召し調え候事は、今月(九月)十八日なり。仍って上達せし
   め候所なり。
 

9月19日 丙子
  厨河の柵を立ち、平泉保に還向せしめ給う。厨河に御逗留は七箇日なり。
 

9月20日 丁丑
  奥州・羽州等の事、吉書初めの後、勇士等の勲功を糺し、各々賞に行われをはんぬ。
  その御下文今日これを下さる。或いは先日これを定め置かれ、或いは今書き下さるる
  所なり。而るを千葉の介最前にこれを拝領す。凡そ恩を施す毎に、常胤を以て初めと
  為すべきの由、兼日の約を蒙ると。先ず国中仏神の事、先規に任せこれに勤仕す。次
  いで金師等に於いては、違乱を成すべからざるの旨、恩に浴すの輩に仰せ含めらると。
  畠山の次郎重忠葛岡郡を賜う。これ狭小の地なり。重忠傍人に語りて云く、今度重忠
  先陣を奉ると雖も、大木戸の合戦、先登他人の為奪われをはんぬ。時に子細を知ると
  雖も、重忠敢えて確執せず。これその賞を傍輩に周しめんが為なり。今これを見るに、
  果たして皆数箇所広博の恩に預かる。恐らくは重忠の芳志と謂うべきかと。この外面
  々の賞勝計うべからず。次いで紀権の守・波賀次郎大夫等の勲功の事、殊に御感の仰
  せを蒙る。但し所領を賜うに及ばず。旗二流を下され、子孫の眉目に備うべきの由仰
  せらると。小山下野大掾政光入道の郎等保志黒の次郎・永代の六次・池の次郎等、同
  じく旗・弓袋を賜う。勲功の賞に依って下賜するの由、銘に加えらるる所なり。盛時
  これを書す(文治五年九月二十日と)。
 

9月21日 戊寅
  伊澤郡鎮守府に於いて八幡宮(第二殿と号す)の瑞籬に奉幣せしめ給うと。これ田村
  麿将軍東夷を征せんが為下向するの時、崇敬の霊廟を勧請し奉る所なり。彼の卿所帯
  の弓箭並びに鞭等これを納め置く。今に宝蔵に在りと。仍って殊に欽仰し給う。向後
  に於いては、神事悉く以て御願として執行せしめ給うべきの由仰せらると。
 

9月22日 己卯
  陸奥の国御家人の事、葛西の三郎清重これを奉行すべし。参仕の輩は、清重に属き子
  細を啓すべきの旨仰せ下さると。
 

9月23日 庚辰
  平泉に於いて秀衡建立の無量光院を巡礼し給う。これ宇治平等院の地形を模すの所な
  り。豊前の介案内者として御共に候す。申して云く、清衡継父武貞(荒河の太郎と号
  す。鎮守府将軍武則子)卒去の後、奥六郡(伊澤・和賀・江刺・稗抜・志波・岩井)
  を伝領す。去る康保年中、江刺郡豊田の館を岩井郡平泉に移し宿館と為す。三十三年
  を歴て卒去す。而るを両国(陸奥・出羽)一万余の村有り。村毎に伽藍を建て、仏聖
  灯油田を寄付す。基衡は果福父に越え、両国を管領す。また三十三年の後夭亡す。秀
  衡父の譲りを得て跡を継ぎ興廃す。将軍の宣旨を蒙る以降、官禄父祖に越え、栄耀子
  弟に及ぶ。また三十三年を送り卒去す。以上三代九十九年の間、造立する所の堂塔、
  幾千万宇を知らずと。
 

9月24日 辛巳
  平泉郡内検非違所の事、管領すべきの旨、葛西の三郎清重御下文を賜う。郡内に於い
  て諸人の濫行を停止し、罪科を糺断すべきの由と。凡そ清重今度の勲功殊に抜群の間、
  これ等の重職を奉るのみならず、剰え伊澤・磐井・牡鹿等の郡已下、数箇所を拝領す
  と。
 

9月26日 癸未
  囚人前の民部少輔基成父子四人、須く鎌倉に召し具せらるべしと雖も、指せる勇士に
  非ざるの間沙汰に及ばず。且つはその子細京都に申されをはんぬ。仍って暫くこれを
  宥め置かれ、追って左右有るべきの旨仰せ含めらる。
 

9月27日 甲申
  二品安部の頼時(本名頼義なり)の衣河の遺跡を歴覧し給う。郭土空しく残り、秋草
  数十町を鎖す。礎石何に在り、旧苔百余年を埋む。頼時国郡を掠領するの昔、この所
  を点じ家屋を構う。男子は、井殿の盲目・厨河の次郎貞任・鳥海の三郎宗任・境講師
  官照・黒澤尻の五郎正任・白鳥の八郎行任等なり。女子は、有か一の末陪・中か一の
  末陪・一か一の末陪なり。以上八人の男女子の宅軒を並べ、郎従等の屋門を圍む。西
  は白河関を界い、十余日の行程たり。東は外浜に拠るか、また十余日。その中央に当
  たり遙かに関門を開き、名を衣関と曰う。宛かも函谷の如し。左は高山に隣り、右は
  長途を顧み、南北は同じく峰嶺を連ぬ。産業また海陸を兼ね、三十余里の際桜樹を並
  べ殖ゆ。四五月に至るまで残雪消えること無し。仍って駒形嶺と号す。麓に流河有り
  て南に落つ。これ北上河なり。衣河北より流れ、降ってこの河に通ず。凡そ官照の小
  松の楯、成通(貞任後見)の琵琶の柵等の旧跡、彼の青岩の間に在りと。
 

9月28日 乙酉
  二品専ら泰衡の辺功を敗り、飽くまで俊衡等の帰往を掌し、漸く鎌倉に還向し給う。
  召し具せらるるの囚人、所処に於いて多く放免せらるの間、残る所三十余輩なり。御
  路次の間、一青山を臨ましめ給う。その号を尋ねらるるの処、田谷の窟なりと。これ
  田村麿・利仁等の将軍、綸命を奉り征夷の時、賊主悪路王並びに赤頭等、寨を構える
  の岩室なり。その巖洞の前途、北に至り十余日、外浜に隣るなり。坂上将軍この窟の
  前に於いて九間四面の精舎を建立す。鞍馬寺を模せしめ、多聞天像を安置し西光寺と
  号し、水田を寄付す。寄文に云く、東は北上河を限り、南は岩井河を限り、西は象王
  岩屋を限り、北は牛木長峰を限るてえり。東西三十余里・南北二十余里と。