1189年 (文治5年 己酉)
 
 

11月*日 [薩藩旧記]
**惟宗忠久下文案
  下す 嶋津御庄政所
   補任 北郷弁済使職の事
    日置兼秀
  右人を以て、今度奥入御共の奉公に依って、彼の職に補任する所なり。御庄官等宜し
  く承知すべし。更に違失すべからざるの状件の如し。以て下す。
    文治五年十一月 日
  前の左兵衛の尉惟宗(御判)
 

11月1日 丁巳
  供御の甘苔十合京都に進上せしめ給う。これ伊豆の国の乃貢なり。
 

11月2日 戊午
  牧の六郎政親御気色を蒙る。北條殿申し預からしめ給う。これ日者泰衡に與し融通の
  聞こえ有るに依ってなり。
 

11月3日 己未
  右武衛の飛脚、並びに先日奥州より進せらるる所の御使等参着す。御感の院宣を下さ
  るるの上、降人の事・勧賞の事、仰詞の記を下さるるなり。二品太だ抃悦し給うと。
   羂索の事御不審の処、委しく聞こし食しをはんぬ。時日を廻らさず追罰するの條、
   古今比類無き事か。返す々々感じ思し食すの由、院の御気色なり。仍って執啓件の
   如し。
     十月二十四日         太宰権の師
   謹上 源二位殿
   奥州降人の事
    ただ計り沙汰すべきなり。但し公家の御沙汰たるべきに於いては、京都に進せざ
    ると雖も、流罪の官符を下さるべきか。重ねての申状に随うべし。
   勧賞の事
    征罰早速、猶々感じ思し食す。計り申すに随い勧賞有るべし。按察使闕有り。任
    ぜらるること如何。郎従の中功有るの輩注し申すべし。尤もその賞に行わるべき
    なり。
  次いで武衛の状有り。追討無為の事賀し申さるる所なり。また云く、御欝陶に依って
  勅勘を蒙る輩、今に於いては宥めの御沙汰有り。所謂八月一日、前の大蔵卿泰経卿・
  前の木工の頭範季朝臣、出仕すべきの旨仰せらる。九月一日、前の大納言朝方本座を
  聴す。出雲の守朝経院内昇殿を聴さると。
 

11月5日 辛酉
  京都より仰せ下さるるの趣、御返事を申されんが為、殊にその沙汰有り。
 

11月6日 壬戌
  武衛の飛脚帰洛す。師中納言の御報を付け遣わさる。勧賞の事辞し申さるる所なり。
  御家人中勲功有るの輩の事、追って注し申さるべきの趣これを載せらると。
 

11月7日 癸亥
  因幡の前司廣元御使として上洛すべしと。これ日来その沙汰有り。今日すでに治定す
  と。奥州を征するの後、所務せしめ給うべき條々これを申さる。勧賞の事固く辞し申
  さる。また御家人勲功の事、功有る輩を注し申すべきの由院宣有り。賞に行わるべき
  故か。辞し申すの上は子細に及ばず。但し勇士は、戦場に臨み武威を施すを以て先途
  と為す。この次いでを以て、その名を上聴に達するの條、その身の眉目たるべきの間、
  姓名を注すべきと雖も、且つは賞を辞し申しながら、これを注進せしむは、縡と意と
  相違するに似たり。且つは注進の如き折紙、もし記録等を継ぎ加えられば、永く代々
  に留め、後見の時に及び、名字を漏らさるる輩の子孫、先祖の軍忠無きを顧みず。定
  めて恨みを貽すか。旁々拠所無きの由、師卿並びに右武衛に謁するの時、内々申し出
  るべきの旨、因州に仰せらると。
 

11月8日 甲子
  因幡の前司廣元使節として上洛す。諸人餞送せざると云うこと無し。龍蹄百余疋と。
  二品鞍馬十疋を賜う。京都に於いて人々に送らしめんが為なり。また綿千両を仙洞に
  奉らる。これ駿河の国富士郡の済物なり。葛西の三郎清重奥州所務の事を仰せ付けら
  るるに依って、還御の時供奉せしめず。彼の国に留まる所なり。仍って今日條々仰せ
  遣わさるる事有り。先ず国中今年は稼穡不熟の愁い有るの上、二品多勢を相具し、数
  日逗留せしめ給うの間、民戸殆ど安堵し難きの由聞こし食すに就いて、平泉の辺殊に
  秘計の沙汰を廻らし、窮民を救わるべしと。仍って岩井・伊澤・柄差、以上三箇郡は、
  山北方より農料を遣わすべし。和賀・稗貫両郡の分は、秋田郡より種子等を下し行わ
  るべきなり。近日則ち沙汰有るべきと雖も、当時深雪たるに依って、その煩い有るべ
  きか。明春三月中施行せらるべし。且つは兼日土民等に相触るべしてえり。次いで故
  佐竹の太郎子息等と称し、泰衡に同意の者有り。合戦敗北の時逐電しをはんぬ。路次
  の宿々を守り、搦め進すべしてえり。次いで泰衡幼息在所を知ろし食されず。これを
  尋ね進すべし。彼の名字は若公と御同名たり。改名せしむべしてえり。次いで大田の
  冠者師衡乗馬(鴾毛)を失うの間、頻りにこれを訴え申す。尋ね進せしむべきの旨、
  奥州に於いて清重に仰せらる。還御するの処、すでに尋ね進すの間、尤も神妙の由と。
  次いで所領内立市の事、御感有り。凡そ国中静謐の由聞こし食す。神妙なりと。次い
  で老母の労、今に於いては殊なる事無し。その事に就いて帰国の思い有るべからず。
  能く国中を警固すべしと。
 

11月15日 辛未 天晴 [玉葉]
  兼日左大臣(甲斐の守長兼を以て使と為す)及び大外記師尚等に示し合わす。各々こ
  の字珍重異議無きの由を称す(師尚今朝勘文を進す)。群議一決しをはんぬ。仍って
  頭の中将成経朝臣を召し、女子の名字、任子を仰す。人を以て伝えず。眼前に仰す所
  なり。即ち参入しをはんぬ。
 

11月17日 癸酉 雪降る、巳以後晴に属く
  二品鷹場を歴覧せんが為大庭の辺に出で給う。野径興を催すの間、渋谷庄に到らしめ
  給う。昏黒に及び、狐一疋御馬前を走る。数十騎左右に相逢う。二品鏑を挟ましめ給
  う。爰に千葉の四郎胤信郎従篠山の丹三と号す者、弓箭の達者なり。弓を引き鐙を合
  わせ、御駕の右に進み寄る。この間御矢と同時に発つの処、御矢これに中たらず。丹
  三の箭狐の腰に中たる。二品知ろし食しながら御声を発せらる。時に篠山一瞬の程に
  下馬し、御箭を己が矢に取り替え狐に立て、これを提げ持参す。二品則ち彼の名字を
  胤信に問わしめ給う。その後渋谷庄司の許に入御す。先ず御酒宴有り。重国の経営美
  を尽くすと。
 

11月18日 甲戌
  鎌倉に還御す。重国御引出物を進す。御馬一疋・鷲羽・桑の脇息一脚等なり。秉燭の
  程営中に入御す。後千葉の四郎胤信に仰せ篠山の丹三を召す。恪勤に候すべきの由仰
  せ含めらる。これ昨日の所為御感の余りなり。
 

11月23日 己卯 冴陰、終日風烈し
  夜に入り大倉観音堂回禄す。失火と。別当浄臺房煙火を見て涕泣し、堂の砌に到り悲
  歎す。則ち本尊を出し奉らんが為焔中に走り入る。彼の薬王菩薩は、師徳に報ぜんが
  為両臂を焼く。この浄臺聖人は、仏像を扶けんが為五躰を捨つ。衆人の思う所万死を
  疑わざるに、忽然これを出し奉る。衲衣纔に焦げると雖も、身躰敢えて恙無しと。偏
  にこれ火もこれを焼くこと能わざるを謂うか。
 

11月24日 庚辰
  北條殿伊豆の国に下向す。これ奥州征伐の後、一伽藍を建立すべきの由、その御立願
  有るの間、すでに北條に於いてその沙汰に及ぶ。仍って奉行たりと。

[玉葉]
  定長卿條々の勅語を伝う。関東返上の国々の事なり。余所存を申しをはんぬ。恐れ有
  りと雖も、偏に愚忠を存ずるが故なり。

[薩藩旧記]
**源頼朝御教書
  薩摩国かこしまの籐内康友ハ、奥州へ御共して、暇を給い帰国せしむ所なり、かつハ
  かこしまの郡司職、もとより知行さうゐなきよし申す、その旨を存ずべし。仰せの旨
  に依って此の如し、仍って執達件の如し、
    十一月二十四日        盛時(奉る)
  伊豆籐内殿