1189年 (文治5年 己酉)
 
 

12月1日 丙戌
  二品の若公鶴岡に御参り。御騎馬なり。宮寺に於いて神馬二疋を奉らる。三浦の十郎
  ・和田の三郎等これを引く。
 

12月3日 戊子 天晴 [玉葉]
  今日未の刻、直衣を着し大納言を相伴い大内に参り、修造の體を巡検す。関東の所課
  国、その勤め莫大なり。他の国々大略その功無きが如し。就中、両三ヶ国、一切手を
  懸けず。宰吏の懈怠、責めて余り有り。
 

12月6日 辛卯
  泰衡征伐の事に依って、猶勧賞に行わるべきの趣、中納言経房の奉りとして院宣到来
  するの間、重ねて辞し申せしめ給う。但し奥州・羽州の地下管領の間の事、明春御沙
  汰有るべきかの由これを申さる。また降人等の事、配流の官符を下さるべきの趣、一
  紙に載せ同じく言上し給う。この事に依って、今日飛脚を立てらるる所なり。
   相模の国 高衡(預かるべきの由、先日申し上げ候いをはんぬ) 師衡 経衡
        隆衡(御定を相待ち、召し置くと)
   伊豆の国 景衡
   駿河の国 兼衡
   下野の国 季衡(当時人に預け置き候ばかりなり。在所に依るべからざるか)
   件の輩、当時の在所に依るべからず候なり。ただその国を定め下さらば、御定に随
   い配し遣わすべく候なり。
 

12月9日 甲午
  この間御厩(十五箇間)を建てらる。奥州駒の中上馬三十疋を撰ばれ、始めてこれを
  立て置かる。景時別当たるべきの由これを奉ると。今日永福寺の事始めなり。奥州に
  於いて泰衡管領の精舎を覧せしめ、当寺華構の懇府を企てらる。且つは数万の怨霊を
  宥め、且つは三有の苦果を救わんが為なり。抑も彼の梵閣等宇を並べるの中、二階大
  堂(大長寿院と号す)有り。専らこれを模せらるるに依って、別して二階堂と号すか。
  梢雲天の極を挟み、碧落中丹の謝より起こる。揚金荊玉の餝、紺殿剰え後素の図に加
  う。その濫觴を謂うに、由緒無きに非ずと。また伊豆の国願成就院の北畔に、二品の
  御宿館を構えられんが為、犯土するに忽ち古額を掘り出す。その文願成就院と。星序
  の運転、遠近量り難しと雖も、露点の鮮妍、蹤跡猶消えること無し。凡そ件の寺は、
  泰衡征伐の御祈りに依って、北條殿これを草創す。群党の逆乱速やかに白刃に伏し、
  両国の静謐併しながら丹祈の如し。寺号また御心願の催す所に任せ、兼ねて撰定せら
  るるの処、重ねて今一字の依違無く、自然の嘉瑞有り。則ち修餝を加え、当寺の額に
  用いらるべしと。誠にこれ希代の厳重、濁世の規模、何事かこれに如かず。始めを以
  て後を察し、古を引き今を思えば、仏閣の不朽・武家の繁栄、この額の字に違うべか
  らざるものか。

[玉葉]
  定長云く、東寺修理、長門の国忽ち叶うべからずと。仍って偏に院の御沙汰として、
  播磨の国の功として、修造せらるべしと。この事尤も珍重の由申しをはんぬ。
 

12月16日 辛丑
  亥の刻月蝕。
 

12月18日 癸卯
  御台所鶴岡に御参り。これ二品奥州御下向の時御立願有るの間、これを果たされんが
  為なり。日来聊か御憚り等に依って延引し今日に及ぶ。北條の五郎殿供奉せらる。宮
  寺に於いて御神楽有りと。
 

12月23日 戊申
  奥州の飛脚去る夜参り申して云く、與州並びに木曽左典厩の子息及び秀衡入道の男等
  の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に発向せんと擬すの由謳歌の説有りと。仍って
  勢を北陸道に分け遣わすべきかの由、今日その沙汰有り。深雪の期たりと雖も、皆用
  意を廻らすべきの旨、御書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱已下越後・信濃等の
  国の御家人に遣わさると。俊兼これを奉行す。
 

12月24日 己酉
  工藤の小次郎行光・由利の中八維平・宮六兼仗国平等奥州に発向す。件の国また物騒
  の由これを告げ申すに依って、防戦の用意を致すべきが故なり。
 

12月25日 庚戌
  伊豆の国・相模両国に於いては、永代早く知行すべきの由仰せ下さるるの間、二品す
  でに領状を申されをはんぬ。また上洛すべきの由、同じく仰せらるる所なり。御返事
  を申せらると。奥州を討ち平らげをはんぬ。今に於いては見参に罷り入るの外、今生
  の余執無し。明年に臨み参洛すべしてえり。
 

12月26日 辛亥
  奥州の降人等配流せらるる事、今月十八日宣下せらるる所なり。職事は蔵人大輔家實、
  上卿は別当(隆房)、弁は権の右中弁棟範朝臣と。これより進せらるる所の飛脚、去
  る十七日辰の刻入洛す。師中納言則ち奏聞せらるるに依って、翌日この御沙汰に及ぶ
  と。両国の事に於いては、明春沙汰有るべきの由と。
 

12月28日 癸丑
  平泉内無量光院の供僧一人(助公と号す)囚人として参着す。これ泰衡の跡を慕い、
  関東に反き奉らんと欲すの由風聞有るに依って、召し禁しめらるる所なり。今日、景
  時を以て子細を推問せらるるの処、件の僧謝し申して云く、師資相承の間、清衡已下
  四代の帰依を請け、仏法の恵命を続ぐなり。爰に去る九月三日泰衡誅戮を蒙るの後、
  同十三日夜、天陰り名月明らかならざるの間、
    むかしにもあらすなるよのしるしにはこよひの月もくもりぬるかな
  此の如く詠みをはんぬ。この事更に当時の儀を蔑如し奉るに非ず。ただ折節懐旧の催
  す所なり。異心無しと。景時頗るこれを褒美す。則ちこの由を二品に達す。還って御
  感有り。その身を厚免し、剰え賞に加えらると。