1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

1月1日 丙辰
  二品鶴岡八幡宮に御参り。御奉幣をはんぬ。還御の後椀飯を行わると。
 

1月3日 戊午
  九郎籐次飛脚として上洛す。これ鷲羽一櫃仙洞に進せらるる所なり。去年進せらるべ
  きの処、奥州より遅到すと。今日御行始めの儀有り。比企の籐四郎能員の宅に入御す。
  越後の守・駿河の守・新田蔵人・伊澤の五郎・小山の七郎(御劔を役す)以下御共に
  候す。

[玉葉]
  この日、天皇御元服なり。加冠は余、理髪は左大臣實定、能冠は内蔵の頭範能朝臣。
  御劔の沙汰、職事家實懈怠に依って、晩に及び事始め。御元服奉行、職事宗隆・六位
  貞綱等なり。
 

1月4日 己未
  出雲の国大社神主資忠この間参候す。而るに一社を管領するの仁、宮中を出て数日の
  行程を凌ぎ、下向すでに両度に及ぶ。太だ御意に背くの間、日来御対面無きと雖も、
  今日帰国の由これを申すに依って、偏に神慮を優じ奉り、なまじいに御前に召し、御
  劔一腰を彼の社に付け進せらると。


1月6日 辛酉
  奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義
  経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北
  郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の
  凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ。その路河北・秋田城等を歴て、大関山を
  越え、多賀の国府に出んと擬す。而るに秋田大方に於いて、志加の渡を打ち融るの間、
  氷俄に消えて五千余人忽ち以て溺死しをはんぬ。天の譴を蒙るか。爰に兼任使者を由
  利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親若くは夫婦怨敵の者に報ずるは尋常
  の事なり。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独りその例を始めんが為、鎌倉に赴
  く所なりてえり。仍って維平小鹿嶋大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、防戦両時に及
  ぶ。維平討ち取られをはんぬ。兼任また千福山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて
  合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑色澤安等を殺戮すと。これに依って在国の
  御家人等面々飛脚を進し、事の由を言上すと。
 

1月7日 壬戌
  去年の奥州の囚人二籐次忠季は、大河の次郎兼任の弟なり。頗る物儀に背かざるの間、
  すでに御家人と為す。仍って仰せ付けらるる事有り、奥州に下向す。途中に於いて兼
  任叛逆の事を聞き、今日帰参する所なり。これ兄弟たりと雖も、全く同意せざるの由
  貞心を顕わさんが為と。殊に御感有り。早く奥州に馳せ向かい、兼任を追討すべきの
  旨仰せ含めらると。忠季兄新田の三郎入道、同じく兼任に背き参上すと。彼等参上の
  今、始めてこれを聞こし食し驚くに依って、軍勢を発遣せらるべきの由その沙汰に及
  ぶ。盛時・行政等召文を書く。相模の国以西の御家人に下さるべし。征伐の用意を存
  じ参上すべきの趣なり。
 

1月8日 癸亥
  奥州叛逆の事に依って軍兵を分ち遣わさる。海道の大将軍は千葉の介常胤、山道は比
  企の籐四郎能員なり。而るに東海道岩崎の輩、常胤を相待たずと雖も、先登に進むべ
  きの由申請するの間、神妙の旨仰せ下さる。仍って彼の輩は、奥州の住人たりと雖も、
  貳を存ぜざるか。各々隔心無くこれを相具し、合戦を遂ぐべきの趣、今日飛脚に付け、
  奥州守護の御家人等の許に仰せ遣わさる。この外近国の御家人結城の七郎朝光以下、
  奥州に所領在るの輩に於いては、一族等に同道すべきの旨を存ぜず、面々急ぎ下向す
  べきの由仰せ遣わさると。
 

1月11日 丙寅 午上雨降る、午後猶天陰、夜に入り風静月明なり [玉葉]
  この日入内の事有り(僕長女、従三位任子、生年十八、余四十二)。
 

1月13日 戊辰
  右武衛書状を進す。出雲の国大社の神主資忠叡慮に背き、頻りに勅喚有りと雖も、曽
  てこれに応ぜず。且つは関東の祈祷師を以て威を振るい、剰え潛かに東国に下向する
  の由その聞こえ有るの間、左右無く御計無く、神職を改めらるべきかの旨申し合わさ
  るる所なり。而るに改替せらるべきや否や、更に計り申し難し。凡そ此の如き類の事、
  口入の限りに非ざるの由これを報じ申さると。今日奥州の凶徒を鎮めんが為行き向か
  うべきの由、上野・信濃等の国の御家人に触れ仰せられをはんぬ。次いで上総の介義
  兼追討使として発向す。また千葉の新介胤正一方の大将軍を承る。爰に胤正申して云
  く、葛西の三郎清重は殊なる勇士なり。先年上総の国合戦の時、相共に合戦を遂ぐ。
  今度また相具すべきの由仰せ含められんと欲すと。清重当時奥州に在り。胤正に相伴
  うべきの旨、御書を清重に下さると。この外、古庄左近将監能直・宮六兼仗国平以下、
  奥州に所領有るの輩、大略以て首途すと。
 

1月15日 庚午 雨時々降る
  二品二所御進発なり。千葉の小太郎、今度の奥州合戦軍忠を抽んずるの間、殊に御感
  有り。御書を遣わさる。但し合戦先登に進まず、身を慎むべきの由これを載せらると。
 

1月18日 癸酉
  伊豆山に御坐す。而るに御奉幣以前、葛西の三郎清重去る六日の飛脚奥州より参着す。
  申して云く、兼任と御家人等と箭合わせすでにをはんぬ。御方軍士の中、小鹿嶋の橘
  次公成・宇佐美の平次實政・大見の平次家秀・石岡の三郎友景等討ち取らるる所な
  り。由利の中八維平は、兼任襲い到るの時、城を棄て逐電すと。飛脚二人を差し進す
  の処、一人病に依って途中に留まると。二品仰せて曰く、使者の申す詞相違有らんや。
  中八は定めて討ち死にせしむか。橘次は逐電せんか。両人共兼日その意趣を知ろし食
  すの上、暗に察すべき事なりと。則ち彼の使者を返し遣わさる。先ず軍士を発遣せら
  れんか。殊なる事無きか。各々驚動の思い有るべからざるの旨仰せ下さると。大見の
  平次この間の事を注進す。その状没後到来すと。
 

1月19日 甲戌
  清重飛脚の内一人、病すでに平減するの間、路次より今日伊豆の国府に参上し、合戦
  の次第の事を言上す。去る十八日参着の使いの口状に同じ。但し兼任小鹿嶋に相向か
  うの時、橘次は逃亡す。最前の使いを得るに依って、中八は馳せ出て合戦し、命を殞
  としをはんぬの由これを申す。御旨忽ち以て符合す。鳴舌すと。
 

1月20日 乙亥
  晩に及び二所より鎌倉に御帰着。向後御参詣に於いては、先ず三嶋・筥根等に御奉幣
  有り。伊豆山より御下向有るべきの由、今度これを定めらる。日来先ず伊豆権現に御
  参の処、路次石橋山に於いて、佐奈田の余一・豊三等の墳墓を覧るに、御落涙数行に
  及ぶ。これ件の両人、治承合戦の時、御敵の為命を奪われをはんぬ。今更その哀傷を
  思し食し出さるるが故なり。この事、御参道に於いて殊に憚るべきの由、御先達申し
  行うの間、此の如しと。
 

1月22日 丁丑
  小諸の太郎光兼は、すでに老耄の上、病痾身に纏うの由聞こし食し及ぶと雖も、殊な
  る勇士たるに依って、今度重ねて奥州に差し遣わさる。去年合戦の時功を致す者なり。
  彼の時相具すの輩は、同じく光兼に従い行き向かうべきの旨仰せらると。
 

1月24日 己卯
  去年の合戦以後、恩赦に預かり私宅の許に安堵するの族、金剛別当郎従等以下悉く以
  て追放すべきの由、奥州居住の御家人等の中に仰せ遣わさるる所なり。
 

1月27日 壬子
  小鹿嶋の橘次公成奥州より参上す。これ一旦兼任の圍みを遁れ、計を外に廻らすべき
  の由思慮せしむの処、彼の合戦の趣、傍輩の讒有るの由これを伝聞し、馳参せしむと。
 

1月29日 甲申
  御使雑色を奥州に遣わさる。これ凶賊所領内を融ると雖も、御家人等一身の勲功を立
  てんが為、無勢を以て所々に於いて左右無く合戦を企て、その利を失うべからず。仮
  令客人を相待ち、駄餉を所領に儲けるの儀に似るべからず。発遣せしむの士、在国せ
  しむの輩、各々偏執無く同心せしめ、一所に相逢い、僉議を凝らし合戦を遂ぐべきの
  旨、御書を以て、今日御家人等の中に触れ仰せらるる所なり。維平の所為、賞翫すべ
  きに似たりと雖も、大敵を請けるの日、聊か憶持無きかの由沙汰有り。この御書に及
  ぶと。時に公成の遠慮然るべきかと。