1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

2月1日 乙酉
  鶴岡の廻廊に於いて大般若経を読誦せらる。供僧等奉仕す。
 

2月2日 丙戌
  貢馬二十疋京都に進せらる。解文等右兵衛の督能保に付け申すべきの由と。
 

2月4日 戊子
  来十月御上洛有るべきに依って、随兵以下の事、諸国の御家人等に触れらると。
 

2月5日 己丑
  雑色眞近・常清・利定等を奥州に遣わさる。これ三方に於いて合戦を遂ぐべきに依っ
  て、その検見の為なり。また凶徒の蜂起、御家人等の武勇に拘わらずんば、発向せし
  め給わんが為、その左右を申すべきの趣、千葉の新介胤正以下御家人等の中に仰せ遣
  わさるる所なり。また合戦の大躰、歩兵等に到りては、山沢を踏みこれを尋ねその便
  有り。然れば宗たる敵の在所を求めこれを襲うべし。凡そ今度の落人等に於いては、
  郎等に到るまで皆これを召し進すべし。落人相論並びに下人等の事に就いて、傍輩互
  いに喧嘩有るべからず。
 

2月6日 庚寅
  辰の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月二十三日彼の国を出をはんぬ。その
  日未だ下着の軍兵無し。爰に兼任等逆賊の群集蜂の如しと。則ち雑色里長を件の使者
  に相副え下し遣わさる。この間計儀を廻らすべきの子細、具に仰せ遣わす所なり。先
  ず謀叛の輩の事、悉く死罪に遁れ難きか。而るに降人として参るの時は、死罪・流刑
  共に以て御意に任すべき事なり。然れば国中の輩、一旦兼任の猛威に怖れ、彼の逆心
  に與せしむと雖も、真実の志は定めて御方に在らんか。帰降し奉るの族に至りては、
  緩刑すべきの由、兼ねて国中に披露すべし。偏に以て追討すべきの趣披露有るに於い
  ては、面々退心を発し、強いて合戦を遂げば、御方の為にその煩い有るべしと。次い
  で新留守所・本留守、共に兼任同意の罪科有り。左右無く誅せらるべきと雖も、暫く
  葛西の三郎清重に預けられ、甲二百領の過料を召すべしと。本留守は、年齢すでに七
  旬、斬罪に処せられずと雖も、終わりを取るの條程無き事かと。次いで方々の勢共の
  中に、塩釜以下の神領に入り、狼藉を現すべからずと。
 

2月10日 甲子
  遠江の守義定、去る月二十五日下総の守に遷任せられをはんぬ。これ外には替国を給
  うと雖も、内には叡慮に背く事等有るが故なりと。遠州は重任多年を送るの上、殊に
  執し思うの処、今この事出来す。愁歎尤も休み難きの由二品に申すの間、執奏せしむ
  べきかの趣、御書を義定の状に副えられ、飛脚を差し進上せしめ給う。行程五箇日に
  定めらると。
  義定申状に云く、
    言上する條々案内の事
  一、勅院事対捍の由の事
   右催促を罷り蒙り候事、一事も懈怠を致さず候。催し候わざる事に於いては、これ
   案内を知らざれば力及ばず候。然れどもすでに不忠に処せられ候に依って、愁歎の
   余り、源二位殿に聞達せしめ候の処、案内を申すべきの由を以て、罷り預け候所な
   り。御消息並びに勅院事の催符を相具し、使に請い返妙等の案を請け取り、謹んで
   以てこれを進覧す。対捍するや否やの旨顕然に候か。しかのみならず、去年恒例の
   済納物の内の未済分、去任の由を承り、国を罷り出で候と雖も、在廰に沙汰し預け
   しめ、請け取り候所の證文、同じく以てこれを進覧す。
  一、造稲荷社造畢覆勘の事
   右上中下社の正殿・宗たるの諸神の神殿、合期造畢す。無事御遷宮を遂げしめ候い
   をはんぬ。自余舎屋等の事、また以てその営勤無きに非ず候。行事季遠懈緩の上奸
   濫す。仍って俊宗法師を相副え候と雖も、六條殿の門築垣の事と云い、大内修造と
   云い、彼此相累なり候の間、自然に遅々す。更に以て忽緒の儀を存ぜず候。すでに
   不足の材木分に於いては、悉く直米を交量し、都鄙の間に沙汰し充てしめ候いをは
   んぬ。件の注文同じく以て進覧し候。この外、材木・桧皮並びに作料已下雑々の用
   途米等、損色の支度に任せ、先に運上すでにをはんぬ。
  以前の條々言上件の如し。然るべきの様計り御沙汰有るべく候。恐惶謹言。
    二月十日            義定(上)
   進上 中納言殿

[東大寺要録]
**後白河法皇院宣
  東大寺衆徒訴え申す伊賀国阿波・廣瀬両庄地頭職の事、愁状此の如し。道理に任せ成
  敗せしむべきの由、関東に仰せ遣わしめ給うべしてえり。御気色に依って、執啓件の
  如し。
    二月十日            宗行(奉る)
  右大将殿
 

2月11日 乙未
  上総の国は、関東御管領九箇国の内たり。源義兼を以て国司に補任せらるるの処、去
  年御辞退の間、正月二十六日、遠江の国と同日国司(平親長)に任ぜらる。仍って今
  日目代等国務すと。大内修理の事、花構すでに成る。これ偏に貞節の致す所なり。丁
  寧の勤め、殊に感じ思し食しをはんぬ。勧賞を仰せらるべし。且つは所望の事有らば
  申し上ぐべきの由、院宣有り。その状昨日到来するの間、御請文を申さると。
   去る月二十二日の御教書、今月十日謹んで以て拝見し候いをはんぬ。知行の国々の
   所課に依って大内修理の事、抽賞を行われ候はば、傍輩定めて欝し思い候か。且つ
   は他国も忠を致して候も候らむ。勧賞の事更に存ぜず候。ただ此の如き叡感を蒙る
   を以て、勧賞に存じ候所なり。有忠無忠の儀、誠に仰せ下され候に於いては、自今
   以後と雖も、傍輩も定めて以て忠勤を励まし候か。この旨を以て洩れ達せしめ給う
   べく候。頼朝恐々謹言。
     二月十一日          頼朝(請文)
 

2月12日 丙申
  軍士並びに在国の御家人等、兼任を征せんが為発遣す。この間奥州に群集す。各々昨
  日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問うの処、兼任一万騎を率い、す
  でに平泉を出るの由と。仍って泉田を打ち立ち行き向かうの輩、足利上総の前司・小
  山の五郎・同七郎・葛西の三郎・同四郎・小野寺の太郎・中條の義勝法橋・同子息籐
  次以下雲霞の如し。縡昏黒に及び、一迫を越えるに能わず。途中の民居等に止宿す。
  この間兼任早く過ぎをはんぬ。仍って今日千葉の新介等馳せ加わり襲い到り、栗原一
  迫に相逢い挑戦す。賊徒分散するの間、追奔するの処、兼任猶五百余騎を率い、平泉
  衣河を前に当て陣を張る。栗原に差し向かい、衣河を越え合戦す。凶賊北上河を渡り
  逃亡しをはんぬ。返し合わすの輩に於いては悉くこれを討ち取り、次第に追跡す。而
  るに外浜と糠部との間に於いて、多宇末井の梯有り。件の山を以て城郭と為し、兼任
  引き籠もるの由風聞す。上総の前司等またその所に馳せ付く。兼任一旦防戦せしむと
  雖も、終に以て敗北す。その身逐電し跡を晦ます。郎従等或いは梟首或いは帰降と。
 

2月22日 丁酉
  造伊勢太神宮役夫工米の事、諸国の地頭等未済有るの旨、去年十二月師中納言の奉書
  到着するの間、日者沙汰を経られ、今日御請文を奉らると。盛時筆を染むと。
   去年極月十二日の御教書同二十四日到来す。役夫工米の間の事、権右中弁親経の奉
   書謹んで拝見し候いをはんぬ。知行の国々は、先日仰せ下され候の旨に任せ、すで
   に沙汰を致せしめ候なり。その中下総の国の事、仰せ下さるる旨を以て、早く下知
   を加うべく候なり。抑も御免の庄々、先度の仰せに就いて除かしめ候の処、信濃・
   越後・上総等の国々加免せしむべきの由、親能下向の度仰せ下されて候へば、追っ
   てまた除かしめ候いをはんぬ。
   家人の輩地頭所々の事、造宮所注文を給い預かり候いをはんぬ。早く下知せしむべ
   く候なり。且つは宣下せられ候いければ、爭か対捍せしめ候や。この中地頭の輩分
   明ならざる所々も相交り候。早く尋ね沙汰し仕るべく候なり。宇都宮・熱田宮・八
   幡宮御領所役の事、尤も然るべく候。進済せしむべきの由仰せ下され候の上、重ね
   て下知せしむべく候なり。凡そ仰せ下さるるの旨に背き、対捍を致し候はむ輩は、
   重ねて注文を給いて下知せしむべく候なり。朝家の御大事に候の上、二十箇年に一
   度の役に候。旁々懈怠を致すべからず候なり。この事のみに候わず、宣下の旨に背
   き候はむ輩は、いかにも法に任せて御沙汰有るべく候。且つはまた御定に随い、抑
   て禁しめ沙汰すべく候なり。君の御定に背き候はむ者をば、家人にて候とても、い
   かでかその罪に行われず候や。頼朝身上にて候とても、不当候はむ時は、御勘当も
   蒙るべき事にてこそ候へ。まして家人の輩の事、左右に及ばず候事なり。遠々の間、
   承り及び候事は邂逅の事に候。また承り及ばず候事は多く候。その間進退恐れ思い
   給い候ものなり。この旨を以て然るべきの様披露せしめ給うべく候なり。頼朝恐々
   謹言。
     二月二十二日         頼朝
   進上 師中納言殿
 

2月23日 戊戌
  奥州合戦の事、胤正・清重・親家等飛脚を進し申して云く、賊徒宗たるの輩大底敗北
  し、兼任逐電す。その間能直・国平等兵略を尽くすと。
 

2月25日 庚子
  下総の守義定申す條々の事、勅答の趣、権中納言(経房)執り進せらるる所の院宣、
  右大弁宰相(定長)の奉書なり。義定これを拝見せしめ、愁緒いよいよ腸を断つと。
  その状に云く、
   二位卿の書状並びに義定申状等奏聞し候いをはんぬ。遠州在任の間、公事所済の目
   録申し上げ候いをはんぬ。諸国の宰吏、この程の公役を勤めざらんや。偏に押領す
   べきの由存知ずるか。在京の国司に於いては、式数済物の上、恒例臨時の課役を相
   営み、その外また勤節を抽んずる所なり。義定に於いては、殊なる忠無きの上、諸
   国逐日亡弊す。尋常の国を知行するの仁に非ず。しかのみならず六條殿造営の時、
   諸国皆領状す。一国申す旨有り。輙く承諾せず。二品の譴責に依ってなまじいに勤
   仕す。私に物詣での間、京洛を過ぎると雖も事の由を言上せず。諸国吏上洛の時密
   々下向す。未だ聞こし食し習わざる事か。此の如き事等、仰せ遣わすに能わずと雖
   も、大概仰せらるる所なり。七箇年知行の後、他国に遷任せらる。豈御宥恕に非ず
   や。子細は猶廣元下向の時仰せらるべきの由、且つは二位卿の許に仰せ遣わすべき
   の由、内々御気色候なり。仍って上啓件の如し。
     二月十八日          右大弁
   謹上 権中納言殿
    遂って上啓す
     義定の文書等、返し遣わすべきの由に候所なり。