1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

3月1日 乙卯
  鶴岡の大般若経転読三十箇日を経て今日結願す。巻数二十部を奉ると。また奥州の凶
  徒等敗北すと雖も、賊主兼任未だ存亡を知らず。仍って御家人等、左右無く参向すべ
  からざるの旨仰せ遣わさると。
 

3月2日 丙辰 晴 [玉葉]
  五位蔵人光綱を召し、前の大僧正公顕を以て、天台座主に補すべき事、御燈斎を過ぎ、
  明後日(四日)宣下すべし。予め上卿已下催し儲くべきの由仰すなり。
 

3月3日 丁巳
  鶴岡八幡宮の法会例の如し。二品御出で。
 

3月9日 癸亥
  法金剛院領怡土庄の事、地頭職を去り進せしめ給うべきの由、度々院宣を下されをは
  んぬ。而るに奥州征伐の後仰せに随うべきの趣、先日御請文を献らるるの間、義経・
  泰衡滅亡しをはんぬ。然れども猶能盛法師知行し難きかの由御沙汰有り。院宣を下さ
  れ今日到来すと。
   法金剛院領怡土庄地頭の事、子細度々仰せられをはんぬ。而るに去々年仰せ遣わす
   の処、奥州事切りの後、重ねて仰せに随うべきの由申せしめ給いをはんぬ。今に於
   いては、異儀に及ばざる事か。しかのみならず彼の院領他に異なるの上、能盛法師
   相伝の所帯知行せざるの條、殊に歎き申せしむ。その謂われ無きに非ず。不便に聞
   こし食すものなり。是非を云わず、地頭を止めしめ給わば宜しかるべき事か。去り
   難き事たるに依って、重ねて仰せ遣わす所なり。委旨に於いては、廣元に仰せ含め
   られをはんぬ。その旨を存知せしめ給うべしてえり。院宣此の如し。仍って執啓件
   の如し。
     三月一日           権中納言籐
   謹上 源二位殿
    私に啓す
    地頭の事、子細を申し置かしめ給うに依って、御猶予候と雖も、この事に至りて
    は、不便の由思し食し候なり。尤も停止せらるべく候なり。御不審の為申し候所
    なり。重ねて謹言。
 

3月10日 甲子
  大河の次郎兼任、従軍に於いては悉く誅戮せらるるの後、独り進退に迫り、華山・千
  福山本等を歴て、亀山を越え栗原寺に到る。爰に兼任錦の脛巾を着し、金作の太刀を
  帯すの間、樵夫等怪しみを成す。数十人これを相圍み、斧を以て兼任を討ち殺すの後、
  事の由を胤正以下に告ぐ。仍ってその首を実検すと。
 

3月14日 戊辰
  右兵衛の督(能保)の書状到来す。廣元の使者に付けらるる所なり。院宣(定長の奉
  り)並びに権中納言(経房)の状等を執り進せらる。その詞に曰く、
   二位卿申さるる條々の事
  一、大内修造勧賞の事
   委しく聞こし食しをはんぬ。此の如く申さるるの上は勿論か。子細は廣元を以て仰
   せられをはんぬ。
  一、相模・伊豆両国の事
   何箇国と雖も、知行過分たるべからず。勲功重疊し先規に超えるか。相州の事、猶
   存旨有らば沙汰有るべし。
  一、御馬二十疋進せらるる事
   近年これ程の員数に及ばず。感じ思し食す所なり。毎事旧に復すか。赤鹿毛の馬の
   事、ただ事の次いでに仰せらるる所なり。強ち尋ね求むに能わず。戸立など出来す
   るの躰、必ず御覧を歴るべきか。
  右の條々御気色此の如し。仍って上啓件の如し。
     三月五日           右大弁定長
   謹上 権中納言殿
 

3月15日 己巳
  左近将監家景(伊澤と号す)、陸奥の国留守職たるべきの由を定めらる。彼の国に住
  し、民庶の愁訴を聞き申し達すべきの旨、仰せ付けらるる所なり。
 

3月20日 甲戌
  因幡の前司廣元京都より参着す。去年冬御使として上洛する所なり。二品申せしめ給
  う條々、悉く以て勅答有り。具にその趣を言上すと。また彼の便宜に付け、前の大僧
  正公顕消息を献る。去る三日天台座主に補しをはんぬ。智證門人絶えてこの例無し。
  仍って山徒殊にこれを欝し申すと雖も、勅命限り有り。宣命を請け取り、同六日辞状
  を上げると。この僧正は二品御帰依の僧なり。八十一の老後この慶賀有りと。
 

3月25日 己卯
  兼任去る十日誅せらるるの由、奥州の飛脚参り申す。また生虜り数十人に及ぶと。