1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

4月2日 乙酉
  鶴岡の末社三嶋社祭例の如し。廣元奉幣の御使たり。
 

4月3日 丙戌
  同じく鶴岡八幡宮祭なり。二品参らしめ給う。流鏑馬、幸氏・盛澄・清近等これを射
  る。
 

4月4日 丁亥
  美濃国内の地頭佐渡の前司重隆並びに堀江禅尼公領を妨ぐ。その事を沙汰せしめんが
  為、召使い則国入部するの処、菊松・犬丸等の公文凌礫するの由訴え有るに依って、
  尋ね下さるるの間、二品殊に驚き申せしめ給う。その状内々権中納言の許に遣わさる
  べきの由と。
    召使い則国申す
    美濃の国菊松公文末友・犬丸公文延末の為、則国の身を凌礫せらるる由の事
   件の両公文等の所行、何ぞ罪科を遁れ候や。早く御使を以て末友・延末を召され、
   罪科せらるべく候なり。いかにも御裁定有るべく候。尼公の地頭職に於いては、不
   日に停廃せしめ、他人を以て改補せしめ候いをはんぬ。返す返すその恐れ少なから
   ず候事なり。彼の尼公の不当第一奇怪に候。今は法に任せ追い出すべく候。兼ねて
   重隆(佐渡の前司)御分国に居住して、公領方に妨げを致すの不当に候はんに於い
   ては、頼朝懸わるべきに候はず。罪科候わば、御目代に仰せ付けられ候て流罪にも
   行われ、いかにも御沙汰候はんを、全く支え申すべからず候なり。国の間の事狼藉
   なる事共候を、自然頼朝知らず候輩の事を一定訴え、罷り負い候か。その恐れ候に
   依って、度々言上せしめ候所なりと。
 

4月7日 庚寅
  御書を下河邊庄司行平に遣わさる。その召し有り。これ若君の御弓師たるべきに依っ
  てなり。若君漸く御成人の間、弓馬の芸を慣わしめ給うの外、他事有るべからず。而
  るに扶持を加え奉るべきの輩、諸家その数有りと雖も、行平適々数代将軍の後胤たる
  なり。随って弓箭の達者なり。仍ってこの御沙汰に及ぶ。早く参上すべきの趣これを
  載せらると。しかのみならずこれに駕すべしと称し、御厩の御馬を遣わさると。
 

4月9日 壬辰
  古庄左近将監能直・宮六兼仗国平等今に奥州に在り。降人以下の事尋ね沙汰しをはん
  ぬ。能直近日帰参すべきに依って、国平同じく参上すべきの由これを申す。而るに雑
  色澤安を討ち取るの者並びに同意の余党の事、また兵具を帯するの士人等の事、能く
  これを糺断せしめんが為、猶在国すべきの旨、今日條々を注し仰せ遣わさると。
 

4月11日 甲午
  若君始めて小笠懸を射給う。行平参上し、御弓・引目等を献るの上、別の仰せを承り
  これを扶持し奉る。三浦の介御的を進す。千葉の介御馬を奉る。小山田の三郎御鞍を
  献る。八田右衛門の尉御行騰・沓等を進す。宇都宮左衛門の尉朝綱御水干・袴を進す。
  南庭に於いてこの儀有り。朝政・遠元・重忠・重朝・義盛・時景等、召しに依ってそ
  の砌に候す。この外御家人等群参す。三度射訖わり下り御う。その芸性を天に稟け給
  うの由、諸人これを感じ申すと。二品盃酒を今日出仕の輩に賜う。行平御劔を賜う。
  御弓師たるに依ってなり。

[玉葉]
  この日改元なり。文治を改め建久と為す(光輔これを撰ぶ)。
 

4月14日 丁酉 [玉葉]
  能保妻、去る夜逝去す。今日、祭能保家の前を渡すべきや否や、沙汰有り。遂にその
  家門前を憚られずをはんぬ。
 

4月17日 [東大寺要録]
**北條義時請文案
  東大寺衆徒申す伊賀国阿波・廣瀬庄の事、院宣並びに寺解の旨に任せ、廣綱が地頭職
  を停止せしめ候いをはんぬ。下知状使者に付けらるべく候なり。この旨を以て披露せ
  しめ給うべく候、義時恐惶謹言。
    四月十七日           右京権大夫(在判)上
 

4月18日 辛丑
  美濃の国犬丸・菊松・高田郷等の地頭乃貢を対捍する事、同国時多良山地頭玄蕃の助
  蔵人仲経神事に従わざる由の事、在廰の申状に就いて、院宣を下さるるの間、二品御
  下文を遣わさるる所なり。
   下す 美濃の国犬丸・菊松・高田郷の地頭等
   右犬丸・菊松の地頭(字美濃の尼上)、高田郷地頭保房等、私領の如く知行し、所
   当以下の勤めを致さざるの由、在廰訴え申すに依って、院より仰せ下さる。仍って
   勤めを致すべきの由度々下知す。猶以て対捍するの間、重ねて仰せ下さるる所なり。
   然れば度々の院宣その恐れ少なからず。今に於いては、件の両人の地頭職、他人に
   改補すべきなり。早く郷内を退出すべきの状件の如し。以て下す。
     文治六年四月十八日

   下す 美濃の国時多良山地頭仲経
    早く先例並びに留守所の催しに任せ、恒例の仏神役に勤仕せしむべき事
   右件の課役、その勤めを致さざるの由、在廰等奏聞を経る。仍って院より仰せ下さ
   るる所なり。自今以後懈怠無くその勤めを致すべし。もし猶難渋の事有らば、爭か
   過怠を遁れんや。更に緩怠すべからざるの状件の如し。以て下す。
     文治六年四月十八日
 

4月19日 壬寅
  造太神宮の役夫工米地頭未済の事、頻りに職事の奉書有り。神宮使また参訴するの間、
  不日に沙汰を致すべきの旨下知し給う。子細有る所々に於いては、今日京都に注進せ
  しめ給う。因州並びに盛時・俊兼等これを奉行す。その状に云く、
    内宮の役夫人・工作料未済成敗の所々の事
   信濃の国 越後の国
    件の両国の未済、前の国務沙汰人に付け究済せしむべきの由、書状を神宮使に與
    えをはんぬ。
   伊豆の国 駿河の国
    件の未済沙汰を致すべきの由、国沙汰人に下知せしめをはんぬ。但し庄々の所課
    支配すと雖も、国使の催促に能わず。早く定使庄家に相催せしむべきなり。重ね
    て事を計り下知せしめをはんぬ。
   河内の国 新関 富島 三野和 長田
   摂津の国 平野 安垣
    景時に下知するの処、返事此の如し。これを相副ゆ。
   同国 安富
    早河の太郎遠平に相尋ねるの処、件の所一切知行せざるの由これを申す。然れば
    これを尋ねらるべし。
   同国 武庫庄
   美濃の国 小泉御厨 椎加納 大井戸加納
   尾張の国 松枝保  御器所 長包庄
   伊勢の国 新屋庄
   備前の国 西院寺
    以上九箇所、消息を以て、別して右兵衛の督に触れ申しをはんぬ。
   近江の国 頓定
    親能に下知しをはんぬ。
     野間
    その所覚悟せざるの上、知行せざるの由定綱これを申す。然れば能く尋ねらるべ
    きなり。仍って下知するに能わず。
     報恩寺 同余田
    究済の由、成勝寺執行法橋昌寛これを申す。
   美濃の国 峰屋庄
    成勝寺執行昌寛の陳状これを相副ゆ。この外所々の書抄注文、下文に相副える所
    なり。
   上野の国 常陸の国 下野の国
    三箇国、別の使者を使に相副え入れ遣わしをはんぬ。抑も上野の国白井河内の分
    は、去年の冬使これを請け取りをはんぬ。早く請使に尋ねらるべきなり。
   伊賀の国 鞆田出作
    家人知行の所に非ず。本所に付け沙汰有るべきか。この外所々注文に載せ、下文
    に相副ゆ。
   伊勢の国 小倭庄
    廣元に下知しをはんぬ。
      岡本 安富 感神院
      阿射賀御厨
      志禮石御厨
      洞田御厨
    知行所に非ず。阿射賀・志禮石は、没官領たりと雖も、院より本領主に分け給う
    と。但し阿射賀に於いては、地頭を補す所なり。然れば下知を加うべきなり。こ
    の外所々注文の上、下文に相副ゆ。
   志摩の国
     答志嶋(淳和院) 菅嶋(本宮御領) 佐古嶋
    知行せざる所なり。その中、菅嶋・佐古嶋の地頭分明ならず。もし所々小名たる
    に依って、独りその名所を得ざるか。この外所々下文の上、請文に相副ゆ。
   美作の国
    平少納言信国知行分、地頭は前の隼人の佐康清。古岡北保、地頭使に相逢い弁済
    しをはんぬ。
     西高田郷 下文在り。
     布施郷  親能に下知しをはんぬ。
     西美和  下知しをはんぬ。
   尾張の国 侍徒押領
    知行せざる所なり。この外所々下文を成し注文に副ゆ。
   紀伊の国 湯橋
    消息を以て熊野の尼上に下知す。
   淡路の国
    国分寺 横山権の守時廣に下知す。
    廣田郷 大和の前司重弘に下知す。その状これに相副ゆ。
   阿波の国
    高越寺 親能に下知しをはんぬ。
   土佐の国
    吾河  消息を若宮の別当法橋に遣わす。
   参河の国 下文を成し注文に副ゆ。
   備中の国 狭尾辺
    件の未済、早く究済を致すべきの由、地頭守定に含む。仍ってまた使者を以て領
    家に申す由申す所なり。
   備後の国 歌嶋
    家清地頭たりながら、大炊寮よりこれを妨ぐと。寮に付けその催し有るべきなり。
   周防の国 津和地
    沙汰人行能使に相向い弁済しをはんぬ。
   長門の国
    親能の知行所、下知せしめをはんぬ。
   但馬の国
    平少納言信国消息を以て、直に山城の守實道に下知す。
   出雲の国 飯生庄 下文在り。
   若狭の国 江取  丹後の局に下知しをはんぬ。
   越前の国
     鳥羽 得光 丹生北 春近
    成勝寺執行使に相逢い、究済しをはんぬの由これを申す。
     藤嶋保 牒状を以て平泉寺に触る。
   越中の国
     弘田御厨 同加納
    給主惟幸使に相向かい、究済すべきの由これを申す。件の所々、造宮使の注文に
    任せ、所々成敗せしむるなり。
   抑もこの内別紙に注し分ける所三十箇所の事、家人知行地の内、未だ配符を請け取
   らざる庄々、同分の由分明なり。これに就いて子細を尋ねるに、造宮始めの後、今
   に至り配符を付けずと。然れば地頭対捍の儀に非ざるか。今に成り始めて催せらる
   るの條、もしこれ吹毛たるか。就中国々の国司・庄々の領家は、大略在京なり。先
   ず国司・領家に催せられば、また国衙・庄家に下知すべし。その時地頭の対捍と号
   し、直に奏達に及わば、また触れ遣わしむる事、その理然るべきか。今に以て催せ
   ざるの所分別無し。家人地頭未済の由注し申さるるの條、未だその理を知らず。
     文治六年四月十九日
 

4月20日 癸卯
  佐々木左衛門の尉定綱の飛脚参着す。申して云く、去る十三日亥の刻、右武衛室難産
  に依って卒し給うと。二位家殊に歎息し給う。今年四十六と。
 

4月22日 乙巳
  大和の前司重弘御使として上洛す。これ一條殿室家卒去の事を訪い申さるるが故なり。
 

4月25日 戊申
  去る十一日改元有り。文治六年を改め建久元年と為すと。
 

4月26日 己酉 晴 [玉葉]
  この日、女御任子冊命立后の事有り。