1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

6月6日 己丑
  太神宮役夫工料米の事、信濃の国未済の所々相交るの由、造宮使言上するの間、雑色
  時澤を使に差し副えられ、催し献るべきの旨仰せ下さると。
 

6月10日 癸巳
  定綱申し送りて云く、今日(五月三十日)一條殿の奉為御仏事を遂行しをはんぬ。御
  導師は寺の僧都御房(公胤)。御願文の草は右中弁殿(親経)。大宮大納言殿(實宗)
  ・右宰相中将殿(實教)・新宰相中将殿(公時)、聴聞の為光臨有るの由と。
 

6月14日 丁酉
  二位家小山兵衛の尉朝政の家に渡御す。御酒宴の間、白拍子等群参し芸を施す。今夜
  月蝕(丑の刻)に依って止宿せしめ給うと。
 

6月22日 乙巳
  女房三位の局の消息(定綱執り進す)参着す。去る十一日、日吉の社壇に於いて、澄
  憲法印を以て導師と為し、五部大乗経を供養す。偏に御助成を以て宿願を果たすと。
 

6月23日 丙午
  去年奥州に入らしめ給うの時、姫宮と称す女姓出来す。尋ね問わしめ給うの処、答え
  申して云く、母は九條院の官女なり。吾筝を弾くの間、且つは母の好に就いて、その
  芸を聞こし食さんが為、暫く彼の院中に在り。後日不慮の次いで有りて、奥州に下向
  すと。これを疑うべきと雖も、肥後の守資隆入道の母、宮たるの條勿論の由申せしむ
  の上、奥州住人一同その儀を存ず。将又秀衡賞翫の余り、出家せしめんと欲すと雖も
  免さずと。一向狂人たるに於いては、秀衡爭か賞せしめんやの由、二品聊か御猶予有
  り。仍って王胤たらば、田舎に居住せしむの條、その恐れ有るべしと称し、京都に送
  り進せらる。廷尉公朝に付けこの子細を申されをはんぬ。而るに無実の旨院宣を下さ
  る。今日到来する所なり。則ち御請文を奉らると。院宣に云く、
   宮と称す人の事無実なり。全く王胤に非ず。聞こし食す如きは不善の人か。在京然
   るべからず。早く返し遣わすべきの由、内々御気色候なり。仍って上啓件の如し。
     六月九日           参議
   宮と称し候い枉惑の事、子細謹んで以て承り候いをはんぬ。本より信受し難く候。
   然れども実否を承らんが為召し進せしめ候の処、猶以て返し預かり候いをはんぬ。
   その旨を存ずべく候。御定に任せ関東に召し下し、誡むべく候と雖も、今年は殺罪
   を犯すべからず候。然ればいかにも御計候て、面顔に疵をも付けられて追放せらる
   べく候か。然らずんば、経高阿波の国に居住し候者に候。件の男に預け給うべく候
   か。関東へ召し下すべきの由の御定を申し返し候。その恐れ候に依って、此の如く
   子細を言上し候なり。この旨を以て申し上げしめ給うべく候。頼朝恐惶謹言。
     六月二十三日         頼朝

[神田孝平氏旧蔵文書]
**文覺書状
  宮と申候て鎌倉ニ出来て候人の候を、鎌倉殿ハ筝宮と申さん人をハ、これにてはとも
  かくもし候へき、くしたてまつりてのほりて、院ニことのよしをも申て、ともかくも
  御定にしたかふへきよし候へハ、相具して上洛し候なり。江判官に此由をいそき仰候
  て、事由を申上て、其左右を近江の江みなとへ仰せ遣わすべく候。宮くしたてまつり
  て、京へいり候なんときこえ、ことことしく候へハ、仰せに随いおいはなち候へくは、
  さやニも沙汰すべく候。鎌倉殿仰せ候事も、尤もその謂われ候事なり。宮なと申て諸
  国散在候、朝家御ために不便ニ候。肥後入道のまことそ申候。早々この旨を江判官ニ
  仰せ候へ。いそきいそきみちへ仰せ遣わされべく候なり。
                    もんかく
 

6月26日 己酉
  大内守護の事、日者北国の御家人等を散位頼兼に相副え、勤仕せしむべきの由、二品
  定め申されをはんぬ。而るに彼の国ばかりを以て叶うべからざるの旨、頼兼申すの間、
  その趣を奏聞せらると。
 

6月27日 庚戌
  伯耆の国住人海大の成国召し下され、囚人として義盛に預けらる。これ去年窮冬の比、
  彼の国に於いて院の召次等を凌轢しをはんぬ。過ちすでに刑法に遁れ難しと。
 

6月29日 壬子
  諸国地頭等の造太神宮役夫工米の事、多く以て対捍有るの間、造宮使頻りに子細を申
  すの間、重ねて仰せ下されをはんぬ。仍って日来その沙汰を経られ、且つは地頭等に
  触れ仰せられ、且つは請文を進せらると。その状に云く、
   去る四月十一日の御教書、五月八日到来す。役夫工米の間の事、奉行弁親経朝臣の
   奉書、謹んで給い候いをはんぬ。知行八箇国の宛文並びに返抄等、別の目録に載せ
   これを注進す。この中相模・武蔵は近境に候の間、能く下知を加えしめ、早速究済
   の勤めを致し候いをはんぬ。自余六箇国は、その程を相隔て候が故、国務沙汰人に
   申し付けるの間、先例を守り沙汰を致せしめ候か。而るに仰せ下され候の旨に驚き、
   古き充文を尋ね候の処、此の如く注し申し候所なり。子細件の注文等に見え候か。
   尾張の国住人重家・重忠等所課の事、法に任せ御沙汰有るべく候なり。凡そ近国の
   輩、事を左右に寄せ対捍を致し候はば、ただ如何にも御成敗有るべく候なり。親能
   ・廣元知行の所々の事、造宮使の申状を以て重ねて下知せしめ候いをはんぬ。この
   外の輩事を頼朝に寄せ、猥りに遁れ避けしめ候ば、官使をも廰の御使をも差し遣わ
   して御沙汰有るべきなり。天下落居の後は、万事君の御定を仰ぐべく候事なり。而
   るに家人を大切と存じ候て、御定に背き候はんとは更に存ぜず候事なり。然れば拘
   わるべく思い給うに候はず、如何にも法に任せ仰せ下さるべく候なり。遠江の国の
   事、謹んで承り候いをはんぬ。義仲は山道の手として、義定は海道の手として入洛
   するの時、当国義定を以て任じ給い候いをはんぬ。然れば頼朝給に非ざるの間、何
   事も別して勤仕せしむべく候なり。而るに仰せ下され候の旨を以て下知せしめ候い
   をはんぬ。義定定めて左右を申し上げしめ候か。條々この旨を以て洩れ達せしめ給
   うべく候。抑も国々の充文を召し調えんと欲し候の間、遅々に及び候。尤も以て恐
   れ思い給い候。頼朝恐々謹言。
     六月二十九日         頼朝
   私に啓す。
    国々の返抄は、奏覧の後猶返し給い候て、各国務沙汰人に返し置くべきの由思い
    給い候なり。重ねて恐々謹言。