1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

7月1日 癸丑
  今明年の間、固く殺生を禁断すべきの由、関東御分国に仰せらる。これ聖断に依って
  なり。その外の国々に於いては、年を限るべからざるの旨、去る月九日宣下せらると。
 

7月11日 癸亥
  土佐の国住人夜須の七郎行宗、本領を安堵すべきの旨御下文を賜う。これ土佐の冠者
  討ち取られ給うの時、身命を惜まず。彼の怨敵蓮池権の守を討ちて以降、度々勲功有
  りと。
 

7月12日 甲子
  法橋昌寛使節として上洛す。これ来十月御上洛有るべきの間、六波羅に於いて、当時
  御亭を新造せらるべし。仍って奉行たるなりと。
 

7月15日 丁卯
  今日盂蘭盆の間、二品勝長壽院に参り給い、万燈会を勤修せらる。これ平氏滅亡の衆
  等の黄泉を照らさんが為と。
 

7月20日 壬申
  営中に双六の御会有り。佐々木の三郎盛綱御合手に候す。子息太郎信實(年十五)父
  の傍らに在り。而るに工藤左衛門の尉祐経追って参加す。座無きに依って信實を懐き
  取り、傍らに居えしめその跡に候す。この間信實頗る顔色を変え退出し、一つの礫を
  持ち来たり、祐経の額を打つ。その血水干の上に流れ降つ。二品太だ御気色有り。仍
  って信實逐電す。また盛綱則ち座を起ちこれを追うと雖も、行方を知らずと。
 

7月21日 癸酉
  信實出家を遂げ逃亡すと。その身を召し進すべきの旨、盛綱に仰せらるると雖も、更
  にこれを求むるに所無し。仍って永く義絶せしめをはんぬ。針の立つ地も譲り與うべ
  からざるの由言上す。仰せに曰く、信實二十未満の小冠たりと雖も、祐経の所存を知
  り難し。早く祐経に向かいこの趣を謝すべしてえり。盛綱報じ申して云く、祐経に於
  いて兼ねて宿意を挿まず。ただ時に臨み信實奇怪の思いを現す。その不義左右に能わ
  ず。然れども盛綱彼の父として、陳謝せしむの條頗る勇士の本意に非ず。上の計りと
  して宥め仰せらるべきかてえり。聊か理致に相叶うの由思し食さるるに依って、邦通
  を以て御使として、仰せられて曰く、盛綱すでに信實を義絶せしめをはんぬ。それに
  於いて向後所存有るべからずてえり。祐経申して云く、事の濫觴を思うに、信實道理
  なり。随って小冠の所為、更に確執無し。況や盛綱に於いて異心を存ぜざるかと。
 

7月27日 己卯
  京都宿所地の事、度々申せしめ給うと雖も、その所未だ治定せざるの上、今年御上洛
  有るべきに依って、殊にこれを馳せ申さる。作事奉行人に於いては、材木の如き用意
  の為、兼ねて以て上洛す。地の事は、重ねて飛脚を立てらる。行程五箇日たるべしと。
  御書に云く、
   宿所の事、先日言上し候いをはんぬ。東路の辺宜しく候か。広らかに給わりて、家
   人共の屋形などを構えて候はんずるに、宿せしむべきの由思い給い候なり。この旨
   を以て洩れ達せしめ給うべく候。頼朝恐惶謹言。
     七月二十七日         頼朝
   進上 権中納言殿