1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

10月2日 癸未
  御上洛の間先陣の事、御家人等或いは内々所望を企て、或いは定めて仰せ付けらるる
  の由、思い儲くの輩これ多し。而るに日来全くその沙汰無し。今日畠山の次郎重忠に
  召し仰す。これ御存念の旨有るの間仰せ付けられんと欲すの処、御夢想有るに依って、
  いよいよ以て思し食し定むと。


10月3日 甲申
  進発せしめ給う。御共の輩の中宗たるの者、多く以て南庭に列居す。而るに前の右衛
  門の尉知家常陸の国より遅参す。待たしめ給うの間、すでに時刻を移す。御気色太だ
  不快。午の刻に及び知家参上す。行騰を着けながら、南庭を経て直に沓解に昇る。こ
  の所に於いて行騰を撒き、御座の傍らに参る。仰せに曰く、仰せ合わさるべき事等有
  るに依って、御進発を抑えらるるの処、遅参す。懈緩の致す所なりと。知家所労の由
  を称す。また申して云く、先後陣は誰人これを奉るや。御乗馬は何れを用いらるるや
  てえり。仰せに曰く、先陣の事は、重忠領状を申しをはんぬ。後陣は思し食し煩う所
  なり。御馬は景時の黒駮を召さるてえり。知家申して云く、先陣の事は尤も然るべし。
  後陣は、常胤宿老として奉るべきの仁なり。更に御案に及ぶべからざる事か。御乗馬
  は、彼の駮逸物たりと雖も、御鎧に叶うべからざるの馬なり。知家一疋の細馬を用意
  す。召さるるべきかてえり。則ち御前に引き出す。八寸余りの黒馬なり。殊に御自愛
  有り。但し御入洛の日これを召さるべし。路次は先ず試みに件の駮を用いらるべして
  えり。また常胤を召す。六郎大夫胤頼・平次常秀等を相具し、最末に供奉すべきの旨
  仰せ含められをはんぬ。その後御首途。冬天程無く黄昏に臨むの間、相模の国懐嶋に
  宿せしめ給う。後陣の輩は未だ鎌倉を出ずと。大庭の平太景能御駄餉を儲く。
 

10月4日 乙酉
  酒匂の宿に入御す。
 

10月5日 丙戌
  関下の辺に於いて、陸奥目代の解状到来す。仍って彼の国地頭所務の間、定めらるる
  事等有り。路駅たりと雖も、猶この御沙汰に及ぶ。繁務寸陰を失わざるが故なり。
   下す 陸奥の国諸郡郷新地頭等の所
    早く留守並びに在廰の下知に従い、先例有限の国事その勤めを致すべき事
   一、国司の御厩舎人等の給す田畠の事
    右件の舎人等郡郷に居住し、彼の田畠を在家等に募り来たる者なり。早く先例に
    任せ引き募らしむべし。且つは作否の多少に随い充て行うべきなり。
   一、国司の御厩佃の事
    右件の佃は、本より定め置くの郡郷有り。宮城・名取・柴田・黒河・志太・遠田
    ・深田・長世・大谷・竹城これなり。早く先例に任せ沙汰を致すべし。縦え所々
    損亡すと雖も、作否に随い沙汰を充て行うべきなり。
   以前の條々、この状に背き不当を致すの輩は、地頭職を改定すべきなり。且つは御
   目代下向せざるの間、留守家景並びに在廰の下知に随い沙汰を致すべし。但し留守
   家景、先例を在廰に問うべきなり。国司は公家より補任せらる。在廰は国司の鏡な
   り。先例沙汰し来たるの事に於いては、人に憚らず、偏頗無く沙汰を致すべし。兼
   ねてまた国これを興復すべきは、ただ勤農の沙汰に在り。家景に仰せ付ける所なり。
   而るに国務に随わざる所々には、家景自身罷り向かい、実否を見知し、下知を加う
   べきなり。猶承引せざるの所をば注し申すべし。但し人に依り憚りを成し、偏頗有
   り、濫行の輩を申し上げざれば、家景に仰せ、奇怪に処すべきの状件の如し。以て
   下す。
     建久元年十月五日
 

10月9日 庚寅
  駿河の国蒲原の駅に於いて院宣到来す。これ近江の国田根庄は、按察大納言(朝方)
  の領所なり。二品の御欝陶に依って、日者籠居するの間、地頭佐々木左衛門の尉定綱
  領家の所務を忽緒すと。彼の卿復本の後、子細を申すに就いて、尋ね成敗せしめ給う
  べきの趣なり。則ちその趣を以て定綱に仰せ含められをはんぬと。
 

10月12日 癸巳
  岡部の宿に於いて、院宣の御請文を進せ給う。按察大納言の使いこの程扈従し奉り、
  御請文を賜い進せ、以て帰洛すと。
   去る月九日の御教書、去る九日到来す。謹んで拝見し候いをはんぬ。近江の国田根
   庄務の事、早く領家使の下知に随い、和與を成し沙汰すべきの由、地頭定綱に仰せ
   含め候いをはんぬ。この上猶対捍を致し候わば、勘当すべく候なり。この旨を以て
   申せ上げしめ給うべく候。恐々謹言。
     十月十二日          頼朝

[玉葉]
  家實・宗頼等来たり。流人奉行使並びに府の沙汰者等、解任すべきの由院宣有りと。
  また去る春、頼朝注進する所の流人の事、近日領送使に遣わすべきの由院宣有り。こ
  の事然るべからず。仍ってその旨奏すべきの由、家實に仰せをはんぬ。
 

10月13日 甲午
  遠江の国菊河の宿に於いて、佐々木の三郎盛綱小刀を鮭の楚割(折敷に居ゆ)に相副
  え、子息小童を以て御宿に送り進す。申して云く、只今これを削り食せしむの処、気
  味頗る懇切なり。早く聞こし食すべきかと。殊に御自愛す。彼の折敷に御自筆を染め
  られて曰く、
   待えたる人の情もすはやりのわりなくみゆる心さしかな
 

10月18日 己亥
  橋本の駅に於いて遊女等群参す。繁多の贈物有りと。これに先だち御連歌有り。
    橋もとの君にはなにかわたすへき
      たヽそまかはのくれてすぎはや  平景時
 

10月25日 丙午
  尾張の国御家人須細治部大夫為基を以て案内者と為し、当国野間庄に到り、故左典厩
  の廟堂(平治事有り、この所に葬り奉ると)を拝し給う。この墳墓荊棘に掩われ、薜
  蘿を払わざるかの由、日来は関東に於いて遙かに懐き遣わしめ給うの処、仏閣扉を排
  き、荘厳の粧い眼を遮る。僧衆座を構え、転経の声耳に満つなり。二品これを怪しみ、
  疑氷を解かんが為、濫觴を尋ねらるるの処、前の廷尉康頼入道国の守たるの時、水田
  三十町を寄付せしめてより以降、一伽藍を建立し、三菩提を祈り奉ると。この事、康
  頼入道の殊功に謝せんが為、兼日一村を賜うと雖も、彼の任国は往年の事なり。行業
  定めて廃絶せしむか。潤餝を加うべきの由思し食すの処、鄭重の儀親しくこれを覧る。
  いよいよ禅門の懇志を憐み、更に古塚の結構を感じ給う。また数十許輩の龍象を屈し、
  二十五三昧の勤行を修せらる。口別に綿衣二領・曝布十端これを施し給うと。
 

10月27日 戊申
  御潔斎。熱田社に奉幣せしめ給う。当社は外戚の祖神たるに依って、殊に中心の崇敬
  を致さると。
 

10月28日 己酉
  小熊の宿に於いて、須細大夫為基身の暇を賜う。鳴海よりこの所迄、御駕の前に候す。
  当国の内牢籠の所領等安堵せしむと。晩に及び美濃の国墨俣に着御す。爰に高田の四
  郎重家配流の宣旨を蒙りながら、猶本所に住す。剰え謀反の企て有るの由これを聞こ
  し食し及ぶに依って、御使を遣わすの処、重家父子参上し、異心無きの由陳べ申すと。
 

10月29日 庚戌
  青波賀の駅に於いて、長者大炊の息女等を召し出され纏頭有り。故左典厩都鄙上下向
  の度毎に、この所に止宿せしめ給うの間、大炊は御寵物たるなり。仍って彼の旧好を
  重んぜらるるが故か。故六條廷尉禅門最後の妾(乙若以下四人の幼息の母、大炊の姉)、
  内記平太政遠(保元逆乱の時誅せらる。乙若以下同じく自殺せしめをはんぬ)、平三
  眞遠(出家の後、鷲栖禅師光と号す。平治敗軍の時、左典厩の御共として、秘計を廻
  らし、内海に送り奉るなり)、大炊(青墓の長者)、この四人皆連枝なり。内記大夫
  行遠の子息等と。