1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

9月3日 甲寅
  大庭の平太景能申して云く、河村の三郎義秀、今に於いては梟首せらるべきかてえり。
  仰せに云く、申状太だその意を得ず。早くその刑に処すべきの由仰せ付けらるると雖
  も、景能潛かにこれを扶け、多年を歴るなり。流鏑馬の賞に依って厚免しをはんぬ。
  今更何ぞ罪科に及ばんやてえり。景能重ねて申して云く、日来は囚人たるの間、景能
  助成を以て命を活し、なまじいに以て免許を蒙るの後、すでに餓死せんと擬す。当時
  の如きは、誅せらるる事還って彼の為喜びと為すべきかてえり。時に二品頗るこれを
  咲わしめ給う。本領相模の国河村郷に還住すべきの旨下知すべしてえり。


9月7日 戊午 甚雨
  夜に入り、故祐親法師の孫子祐成(曽我の十郎と号す)、弟の童形(筥王と号す)を
  相具し北條殿に参る。御前に於いて元服を遂げしむ。曽我の五郎時致と号す。龍蹄一
  疋(鹿毛)を賜う。これ祖父祐親法師は、二品を射奉ると雖も、その子孫の事、今に
  於いては沙汰に及ばず。祐成また継父祐信に相従い曽我庄に在り。不肖に依って未だ
  官仕を致さずと雖も、常に北條殿に参る所なり。然る間、今夜の儀強いて御斟酌に及
  ばずと。                                               [曽我物語]
 

9月9日 庚申
  古庄左近将監能直陸奥の国より使者を進す。両州の輩の忠否並びに兼任伴党の所領等
  を注進す。仍って盛時の奉行として、彼の賞罰の條々沙汰を経られ、事書を能直に下
  さると。
 

9月13日 甲子
  板垣の三郎兼信・高田の四郎重家等、去る七月配流の官符を下さるると雖も、領送使
  これを送らず。今に在京するの由風聞するの間、内々殿下に執り申さるるべきの旨、
  右武衛に仰せ遣わさると。
 

9月15日 丙寅
  来月御上洛有るべきに依って、御出立の間の事等沙汰を経らる。今年諸国旱水共に相
  侵し、民戸皆安らかなること無し。仍って延引せしめ給うべきかの由、聊か御猶予有
  りと雖も、兼日すでに仙洞に申せられをはんぬ。今に於いては御逗留に及ぶべからず
  と。御路次の間の事、諸事奉行人を定めらる。行政・善信・盛時・泰清等これを沙汰
  すと。彼の目録、雑色常清・成里に下さると。
    御京上の間奉行の事
   一、貢金以下進物の事
      民部の丞仁政 法橋昌寛
   一、先陣随兵の事
      和田の太郎義盛
   一、後陣随兵の事
      梶原平三景時
   一、御厩の事
      八田右衛門の尉知家 千葉の四郎胤信
   一、御物具の事
      三浦の十郎義連 九郎籐次
   一、御宿の事
      葛西の三郎清重
   一、御中持の事
      堀の籐次親家
   一、雑色以下下部の事
      梶原左衛門の尉景季 同平次景高
   一、六波羅御亭の事、並びに諸方贈物の事
      掃部の頭親能 因幡の前司廣元
    右、仰せに依って定める所件の如し。
      建久元年九月日
 

9月16日 丁卯
  畠山の次郎重忠武蔵の国より参上す。これ御上洛供奉の為なり。

[玉葉]
  この日伊勢太神宮、新造宮に遷御の日なり。仍って公家並びに余致齋を為す。遙拝の
  志有りと雖も、灸治に依って拝さず。但し祓いを修す。また刻限の期に臨み、衣冠を
  正しこれを祈念す。
 

9月17日 戊辰
  去る月二十七日の院宣到来す。民部卿経房執り進せらるる所なり。條々の内、兼信所
  領遠江の国雙侶庄の事、御旨に応じ、今日御請文を献らると。これ光範朝臣の所望に
  依って、地頭職を去り進せらるべきの由仰せ下さるる所なり。自余の両條は、先日こ
  れより言上せらるるの勅答たりと。
  院宣に云く、
   東大寺料麻苧の事
    日来沙汰の次第皆聞こし食す所なり。尤も神妙なり。今度支配の趣、爭か仰せら
    れざるや。仍って告げ仰せられをはんぬ。上棟以前強ち事を闕くべからず。近国
    多くこれを進済す。周防の国杣出の間、また入るべきなり。漸く催促すべきか。
   日吉社千僧料並びに装束の事
    沙汰し進すべきの由聞こし食しをはんぬ。此の如き事、結縁の為仰せらるる所な
    り。
   圓勝寺領遠江の国雙侶庄地頭の事
    件の御堂は、待賢門院の御草創、殊に他寺に準ぜず思し食す。連々仏聖以下の闕
    如、年貢対捍の不便聞こし食す。兼信流罪を被りをはんぬ。その替わりの地頭を
    補せられずんば、旁々宜しかるべき事か。
   以前の條々、この旨を以て仰せ遣わすべきの由、内々御気色候なり。仍って上啓件
   の如し。
     八月二十七日         右大弁定長
   謹上 民部卿殿
  御請文に云く、
   仰せ下され候遠江の国雙侶庄地頭兼信流罪し候に依って、その替わりを補すべから
   ず候の由、謹んで以て奉り候いをはんぬ。この旨を以て洩れ達せしめ給うべく候。
   頼朝恐惶謹言。
     九月十七日          頼朝
 

9月18日 己巳
  佐々木の三郎盛綱、また野箭一腰を進上す。御上洛料なり。即ちこれを覧るに、無文
  の染羽、鶉目樺を以てこれを挨つ、籐の口巻なり。青鷺の羽を以て表箭と為す。これ
  曩祖将軍天喜年中奥州の梟賊を征伐せしむの後、帰洛の日この式の矢を用ゆと。また
  飯富の源太宗季(宗長に改む)簇を作り献る。同じく御覧を歴るの処、端革を逆に重
  ねるなり。その由緒を問わしめ給う。宗季答え申して云く、これ故実なり。赤革を以
  て表に重ねしめば、頗る平家の赤旗・赤標に相似るなり。下に重ねるの條然るべきか
  と。また蛇結文を腰充てに居ゆ。その風情殊に珍重なり。旁々御感の余り、向後端を
  重ねることこの儀たるべし。次いで蛇結丸は、宗季の手文たるべきの由仰せ含めらる
  と。
 

9月20日 辛未
  東大寺作事の縄料苧、諸国御家人に充て催すべきの由院宣を下さるるの間、二品悉く
  以て施行し給いをはんぬ。次いで御上洛の事、内々思い企てると雖も、諸国洪水の折
  節、事の煩いたるべきかの由、民部卿経房の許に示し遣わさるるの間、奏聞せらるる
  に依って、右大弁宰相の奉書有り。戸部これを執り進せらる。今日到来する所なり。
   東大寺苧綱の事、五畿七道一国漏らさず催せらるるの間、触れ仰せられをはんぬ。
   但し各々結縁の由を存じ多く進済す。上棟の用途に於いては、すでに余剰有るの由
   上人申す所なり。上洛の間、少事と雖もその煩い有らんか。明春彼の知行の国々の
   分に於いては沙汰有るべし。就中この催し以前、度々催し遣わすの由聞こし食す所
   なり。此の如く意に入れ申さるるの條、神妙の由仰せ遣わすべしてえり。御気色候
   なり。仍って上啓件の如し。
     九月十三日          右大弁
   謹上 民部卿殿
   遂啓
    洪水の事誠に驚き聞こし食す。一国もこの難を免がれざらんか。凡そ左右に能わ
    ず。但し上洛に於いては、更にこの事に依るべからず。今に上洛せざれば、朝暮
    待ち思し食すの処、今年また空しく止めをはんぬるは返す々々遺恨なり。ただ思
    い立つべきの由、計り仰せ遣わすべきの旨候なり。彼の消息これを返上す。右府
    にも申し合わせ候いをはんぬ。
  京都御地の事、故池大納言の旧跡治定すと。作事を始めらるの由、昌寛これを申すと。
 

9月21日 壬申
  御上洛の間、御留守の兵士を定めらる。御家人等の近々の所領に充てらると。伊豆の
  国寺宮庄(北條殿)以下二十余箇所なり。行政これを奉行す。また因幡の前司は先に
  上洛すと。御入洛以前、京都に於いて沙汰を致すべき事等有るが故なりと。
 

9月27日 戊寅 [玉葉]
  院より定長の奉行として仰せ下されて云く、流人三人(兼信・重隆・重家)、未だ配
  所に赴かず。二位卿上洛以前に、慥に追い下すべきの由沙汰を致すべしてえり。官並
  びに使の廰に仰せをはんぬ。使の廰申して云く、未だ上卿に承らず。遠国の犯人、使
  の廰沙汰を致さずと。官申して云く、相尋ねるべしと。
 

9月28日 己卯 天晴 [玉葉]
  巳の刻、重ねて院宣到来す。流人の事、殊に沙汰を致すべし。件の流人配所に赴くの
  後、参洛すべきの由、頼朝卿申せしむと。今日、大夫史廣房、並びに左衛門府の領送
  使、奉行史等を召し集め、子細を問う。件の流罪、去る七月晦日宣下す。而るに領送
  使等、今に未だ出京せずと。大略、奉行職事能くこれを仰せず。また官懈怠すか。こ
  れまた近代の流例なり。各々の申状を召し院に進せをはんぬ。また大理ばかり、使の
  廰使を遣わすべきの由これを仰す。頗る申す旨有るか。
 

9月29日 庚辰
  先陣随兵の記は義盛に賜う。後陣随兵の記は景時に下さる。各々奉行せしむべきに依
  ってなり。彼の記の内、家子並びに豊後の守・泉の八郎等に於いては殿の字を加えら
  ると。