1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)
 
 

12月1日 辛巳 晴
  右大将家御拝賀なり。主税の頭在宣朝臣日時勘文を献る。これ院宣に依ってなり。申
  の一刻仙洞(六條北、西の洞院西)に御参り。
  路次の行列
  先ず居飼  四人 (二行。退紅、手下これを縫い越す。一人鼻捻を持つ)
  次いで舎人 四人 (二行。已上行幸の列式一列。今度右府御諷諫と。萌黄狩襖袴・
            薄色袙・白練単・村濃平組括り・平礼)
   已上院の御厩舎人(貞澤・金武・枝次)
  次いで一員(府生・将曹・廰一人、将監已上は束帯移馬。皆院の御馬なり)
  次いで前駆笠持ち(打鞍覆、両三相交る)
  次いで前駆十人
   七條院非蔵人範清        河内の守光輔
   皇后宮大進行清         散位成輔
   前右馬の助朝房         前の尾張権の守仲国
   前の下総の守邦業        前の左馬の助成實
   内蔵権の頭国行         前の参河の守範頼
  次いで番長 秦兼平(左府生なり。清撰に依ってこれを下さる。白狩袴・壺脛巾、狩
            胡録を負う。従者八人、傍路前行す)
  次いで御車(上簾)
   車副 二人(平礼・垂裾) 白張(村濃平組括り、薄色衣・白練単)
   牛童(赤色山吹衣、榻を持つ。院の御牛飼い、黄単)
   黒班牛(院の御牛)
    糟屋の籐太有季(直衣・折烏帽子) 御劔(武太刀)を持つ
    前の左衛門の尉朝綱・前の右衛門の尉朝家
          (各々直衣・折烏帽子、御車の左右に在り。車副の傍らに立つ)
  次いで近衛五人
   播磨の貞弘(本府生敦助男) 下毛野の敦季(敦助男)
   秦の兼峯(兼平男) 同頼任(頼文男) 佐伯の武文(近文男)
  次いで雑色七人(一人垂袴、沓を着す。五人藁沓を着す。皆平礼)
  次いで笠雨皮持ち
  次いで侍七人(布衣)
   三浦の介義澄    千葉の新介胤正  左衛門の尉祐経  前の右馬の允遠元
   前の左衛門の尉基清 葛西の三郎清重  八田の太郎朝重
  次いで扈従の人々
   左兵衛の督能保卿(毛車・上簾。随身を具す。垂袴ばかり)
   左少将公経朝臣(上簾。衛府二人共に在り)
   右少将保家(上簾。衛府二人共に在り)
  次いで御調度懸け
   前の右馬の允時経(騎馬、御入洛日の御箭を負う。麹塵水干袴を着す。立烏帽子)
  次いで随兵七騎
   北條の小四郎   小山兵衛の尉朝政   和田の太郎義盛
   梶原平三景時   土肥の次郎實平    比企の籐四郎能員
   畠山の次郎重忠
  中門に於いて奏慶せしめ給う。内蔵の頭定輔朝臣申次たり。帰出の仰せ聞こし食す。
  舞踏をはんぬの後、御前の召し有り。透渡殿(蔵人兼ねて圓座を敷く)に参進せられ、
  即ち御退出。御馬を賜りしめ給うべきの処、内々子細を申せらるるの間、この儀を略
  せらると。秉燭以前に、六條を東行、東洞院を北行、内裏(閑院)に御参り。弓場殿
  に於いて奏慶せしめ給う。右中将伊輔朝臣これを申し次ぐ。舞踏をはんぬ。頭の中将
  實明朝臣これを召す。昼の御座の前に参進し給う。主上中宮の御方に出御す。御用意
  有りと雖も参り給わず。また摂政殿同じくこれを略せらると。禄は番長兼平馬三疋・
  色々の布百段。近衛五人各々馬一疋・色々の布三十段と。親能これを奉行す。

[玉葉]
  この日、右大将頼朝、拝賀なり。

[愚管抄]
  大将のよろこび申にもいみじくめづらしき式つくりて、前駆十人はみな院の北面の者
  給はりて、随身かねよりが太郎かねひら給りて、公卿には能保、いもうとの男にて、
  やがて次第になしあげたれば、中納言にて、それ一人ぐして、やがて其のいもうとの
  腹のむすめにむことりたりし公経中将、またいとこを子にしたる基家の中納言が子の
  保家少将、これらをぞ具したりける。我車のしりに七騎の武士をよろいきせて、かぶ
  とはきず、ただ七人具したりき。
 

12月2日 壬午 晴
  右大将家御直衣始めなり。藤丸薄色・堅文織物、奴袴薄色紅梅を出す。褂厚野劔(紫
  革の装束)、笏を持ち給う。檳榔の毛車。
  前駆六人
   行清 成輔 仲国 邦業 国行 範頼
  番長兼平 布衣(虫襖上下紅衣) 冠
  下臈五人色々(赤色・萌木・朽葉・檜皮色・二藍)
  随兵八人
   小山田の三郎重成 葛西の三郎清重 千葉の平次常秀 加藤次景廉
   三浦の十郎義連  梶原の三郎景茂 佐貫の四郎廣綱 佐々木左衛門の尉定綱
  扈従の人無し。先ず仙洞に御参り。東門を入り西の作合廊に候し給う。則ち召し(右
  中弁棟範朝臣これを召す)に依って御前に参進す。刻を移し御退出。抑も昨日の拝賀、
  直垂を着し太刀を持つ者、御尋ね有り。姓名を奏せらるるの処、無官然るべからず。
  早く兵衛の尉を授けらるべきの由勅定有りと。次いで御参内。今日の上下装束、皆以
  て院よりこれを調え下さる。
 

12月3日 癸未
  右大将家両職の辞状(筥に納め、これを裹まず)を上げしめ給う。右少将保家使いた
  り。頭の中将これを請け取り院に奏す。留め申さると。

[玉葉]
  今日、右大将頼朝、直衣を着し出仕すと。ただ院に参り、参内せず。日昼出仕す。前
  駈六人と。

[愚管抄]
  両官辞退してき。もとをりふしをりふしに正二位までに位には玉はりにけり。大臣も
  何もにてありけれど、我心にいみじくはからい申けり。いかにもいかにも末代の将軍
  に有がたし。ぬけたる器量の人なり。
 

12月4日 甲申
  前の右大将家、絹布等を以て京中の然るべき神社仏寺に施入せしめ給うと。親能・行
  政・昌寛等これを奉行す。
 

12月5日 乙酉
  前の右大将家八幡に詣でしめ給う。供奉人前の如し。今日龍蹄を戸部(経房)に献ぜ
  らる。また前駈の人々皆馬を引かる。知家・胤信等御使たり。
 

12月7日 丁亥
  前の右大将家の関東御下向近々の間、御所の女房三位の局餞物等を送らる。扇百本そ
  の中に在り。これも内々の御気色に依ってこの儀に及ぶと。
 

12月8日 戊子
  前の右大将家、御劔一腰・砂金十両を三井寺青龍院の修理料に施せらる。この霊場は、
  八幡殿殊に御帰敬、御髪を埋めらるると。

[玉葉]
  今日、前の大将半蔀車に乗り参院す。この事如何。然れば、大将辞退以前に乗るべき
  か。教訓の人亡きがごときか。前の大納言・前の大将、半蔀車に乗り出仕す。未だ曽
  て聞かず。これ院宣なり。
 

12月9日 己丑
  前の右大将家半蔀車に駕し、参院せしめ給う。件の車は院より調え下さるる所なり。
 

12月10日 庚寅
  六波羅御留守の事、今日これを定めらる。左武衛の賢息(幕下甥)彼の御亭に坐せら
  るべしと。

[玉葉]
  また家實に付け條々の事を奏す。新制の間の事なり。前の大将、郎従の中成功の輩の
  交名を注進すと。

[石清水文書]
**源頼朝御教書案
  今度上洛ニハ任官の事を辞し申すの外、申すべき事無きの間、物なと上へ申さぬ者な
  り。而るに強ニ申されなれハ、三品許へ一行を献ずる所なり。御消息此の如し。仍っ
  て執達件の如し。
    十二月十日           盛時(奉る)
  八幡別当僧都御房
 

12月11日 辛卯
  前の右大将家院内に参らしめ給い、数刻御祇候。御家人十人、成功に募り左右兵衛の
  尉・左右衛門の尉等に挙任せらる。これ度々の勲功の労に依って、二十人を挙げ申す
  べきの旨仰せ下さるる所なり。幕下頻りにこれを辞し申さると雖も、勅命再往の間、
  略して十人を申し任ぜらると。
   左兵衛の尉 平常秀(祖父常胤勲功の賞を譲る)
         同景茂(父景時同じく賞を譲る)
         藤原朝重(父知家同じく賞を譲る)
   右兵衛の尉 平義村(父義澄同じく賞を譲る) 同清重(勲功の賞)
   左衛門の尉 平義盛(勲功の賞) 同義連(同賞)
         藤原遠元(同賞、元前の右馬の允)
   右衛門の尉 藤原朝政(同賞、元前の右兵衛の尉) 同能員(同賞)
 

12月12日 壬辰 小雪 [玉葉]
  院より前の大将に仰せらる勲功の賞大功田の間の事、余先日申し出る所なり。子細を
  申しをはんぬ。また公事の用途、闕如に依って、成功の者二十五人、前の大将交名を
  進すと。

[東大寺要録]
**源頼朝下文
  下 伊賀国山田郡内有丸並びに廣瀬阿波杣山
   早く地頭職を停止すべき事、
  右、件の所は、没官地たるに依って、地頭を補すと雖も、院宣に依って彼の職を停止
  する所なり。早く宋人(陳和卿)の進止たるべきの状、使に付す。以て下す。
    建久元年十二月十二日

**後白河院廰下文
  院廰下 伊賀国在廰官人等
   早く東大寺宋人山田郡内有丸・廣瀬・阿波杣山を知行せしむべき事、
  右件の村々は没官の地たり。前の右大将源卿知行。而るに宋人申請に依って、彼の家
  の下文を成し賜いをはんぬ。てえれば、彼の宋人に知行せしむべきの状、仰せの所件
  の如し。在廰官人等宜しく承知すべし。遺失すべからず。故に下す。
    建久元年十二月 日       (署名略)
 

12月13日 癸巳
  当時御車(毛車)三両有り。六波羅の御亭に立て置かる。二両は、今日行政の奉行と
  して関東に下さる。佐々木左衛門の尉定綱これを請け取り、近江の国の疋夫を以てこ
  れを送ると。

[玉葉]
  院より宗頼を以て、大功田百町の宣旨を下すべきの由、並びに勲功の賞衛廰十人任ぜ
  らるべきの由仰せらる。但し今日日次宜しからず。明日行わるべしと。即ち将軍明日
  下向なり。仍って早旦、大功田の事宣下すべきの由これを仰す。また除目ハ行幸還御
  以後行わるべきの由仰せをはんぬ。またこの旨奏しをはんぬ。
 

12月14日 甲午 天霽
  前の右大将家関東に下向せしめ給う。前後の随兵以下供奉人、御入洛の時の如し。但
  し駿河の守廣綱今暁忽ち逐電す。家人等皆これを知らず、仰天すと。これ故伊豆の守
  仲綱の男なり。年来右大将軍に相従い奉り関東に候す。仍って去る元暦元年六月五日、
  当国の守に申し任ぜらる。今度伴い上洛せしめ給うの処此の如し。その意を知らずと。
  夜に入り風尤も烈し。小脇の宿に着かしめ給う。

[玉葉]
  還御の後、賞を仰せらる。(略)今日、前の大将帰国しをはんぬ。

[愚管抄]
  十二月十八日に帰りてくだりにけり。前の日大功田百町宣下など給けり。

[石清水文書]
**源頼朝書状案
  八幡別当成清法印申す寶塔院領の事、以前宣旨・院宣を下さるるの由申し候。その理
  候は、申し達せしめ給うべく候か。恐惶謹言。
    十二月十四日          頼朝
  三位(泰経)殿
 

12月15日 乙未 箕浦の宿。
12月16日 丙申 雪聊か散る。青波賀。
12月17日 丁酉 黒田。

12月18日 戊戌 小熊(黒田より西なり。前後を書かずてえり)
[玉葉]
  院より前の大将の申状二ヶ條の事を仰せらる。群盗の事、並びに新制の事等なり。

12月19日 己亥
  夜に入り宮路山中に宿せしめ給う。

12月20日 庚子 橋下。
12月21日 辛丑 池田。
12月22日 壬寅 懸河。
12月23日 癸卯 嶋田。
12月24日 甲辰 駿河国府。
12月25日 乙巳 奥津。

12月26日 丙午
  亥の刻黄瀬河の宿に着かしめ給う。、御馬乗替等多く以てこの所に儲く。北條殿御駄
  餉を献らると。

12月27日 丁未 竹下。
12月28日 戊申 酒匂。

12月29日 己酉
  五更酒匂の宿を出でしめ給う。酉の刻鎌倉に着御すと。