1191年 (建久2年 辛亥)
 
 

1月1日 庚戌
  千葉の介常胤椀飯を献る。その儀殊に刷う。これ御昇進の故と。午の刻前の右大将家
  南面に出御す。前の少将時家朝臣御簾を上ぐ。先ず進物有り。御劔は千葉の介常胤、
  御弓箭は新介胤正、御行騰沓は二郎師常、砂金は三郎胤盛、鷹羽(櫃に納む)は六郎
  大夫胤頼。
    御馬
   一、千葉の四郎胤信  平次兵衛の尉常秀
   二、臼井の太郎常忠  天羽の次郎眞常
   三、千葉の五郎胤道
   四、寺尾大夫業遠
   五、
  庭儀終わり御簾を垂る。更に西面の母屋に出御す。御簾を上げられ、盃酒歌舞に及ぶ
  と。
 

1月2日 辛亥
  御椀飯(三浦の介義澄沙汰す)。三浦の介義澄御劔を持参す。御弓箭は岡崎の四郎義
  實、御行騰は和田の三郎宗實、砂金は三浦左衛門の尉義連、鷲羽は比企右衛門の尉能
  員。
    御馬
   一、三浦の平六義村  太郎景連
   二、
   三、
   四、
   五、
 

1月3日 壬子
  小山右衛門の尉朝政椀飯を献る。御劔は下河邊庄司行平、御弓箭は小山の五郎宗政、
  御行騰沓は同七郎朝光、鷲羽は下河邊の四郎政能、砂金は最末に朝政自らこれを捧持
  す。自ら堂上に参進し、御座の前に置くと。次いで御馬五疋。
 

1月5日 甲寅
  宇都宮左衛門の尉椀飯を献る。御酒宴の間、即ち堪能者を召し弓始め有り。
  一番 下河邊庄司行平   榛谷の四郎重朝
  二番 和田左衛門の尉義盛 藤澤の次郎清親
  各々一五度射訖わり、召しに依って御座の間の砌の外に参進し、禄を賜う。行平は御
  劔(時家朝臣これを伝う)、義盛は御弓箭(江間殿これを伝う)、重朝は鷲羽、清親
  は御行騰。これ今日の進物と。
 

1月8日 丁巳
  今年中の際、毎日十二巻の薬師経を読誦すべきの由、若宮の供僧並びに伊豆・筥根山
  の衆徒等に仰せらると。
 

1月11日 庚申
  前の右大将家鶴岡の若宮に御参り。三浦左衛門の尉御劔を持つ。小早河の弥太郎遠平
  御調度を懸く。伊豆の守・三浦の介・梶原平三以下供奉す。神馬三疋御前に引列す。
   一疋  梶原兵衛の尉景高(下手は職掌これを引く。自余同じ)
   一疋  千葉の次郎師常
   一疋  葛西の十郎
 

1月15日 甲子
  政所の吉書始めを行わる。前々諸家人恩沢に浴すの時、或いは御判を載せられ、或い
  は奉書を用いらる。而るに今羽林上將に備わしめ給うの間、沙汰有り。彼の状を召し
  返し、家の御下文に成敗せらるべきの旨定めらると。
  政所
   別当  前の因幡の守中原朝臣廣元
   令   主計の允藤原朝臣行政
   案主  藤井俊長(鎌田の新籐次)
   知家事 中原光家(岩手の小中太)
  問注所
   執事  中宮大夫屬三善康信法師(法名善信)
  侍所
   別当  左衛門少尉平朝臣義盛(治承四年十一月この職を奉る)
   所司  平景時(梶原の平三)
  公事奉行人
   前の掃部の頭藤原朝臣親能  筑後権の守同朝臣俊兼
   前の隼人の佐三善朝臣康清  文章生同朝臣宣衡
   民部の丞平朝臣盛時     左京の進中原朝臣仲業
   前の豊前の介清原眞人實俊
  京都守護
   右兵衛の督(能保卿)
  鎮西奉行人
   内舎人藤原朝臣遠景(天野の籐内と号す。左兵衛の尉)
 

1月17日 丙寅
  民部の丞盛時・武藤の次郎資頼等仰せを奉り、使者を伊勢・志摩両国に遣わす。また
  出納和泉の掾国守これを相副ゆと。これ平家没官地、未だ地頭を補せられざる所々相
  交るの由聞こし食し及ぶに依って、これを巡検せんが為なりと。
 

1月18日 丁卯
  御家人内藤六盛家、去年の春以後、周防の国遠石庄内石清水別当領に乱入せしめ、神
  人友国を刃傷し、神税を抑留す。社家これを訴え申すに就いて、去年六月二十一日院
  宣を下さる。仍って石清水権の別当の使者その状を捧げ参訴するの間、院宣厳密の上
  は、左右に能わず。早くその所を退出せしむべきの旨、盛家の許に仰せ下さると。親
  能・盛時等これを奉行す。子細を究められずと雖も、この儀に及ぶ。これ且つは綸命
  を重んぜられ、且つは御敬神の致す所なりと。
 

1月23日 壬申
  女房大進の局恩沢に浴す。これ伊達常陸入道念西の息女、幕下の御寵なり。若公を生
  み奉るの後縡露顕し、御台所殊に怨み思い給うの間、在京せしむべきの由内々仰せ含
  めらる。仍って近国の便宜に就いて、伊勢の国を宛らるるかと。
 

1月24日 癸酉
  左武衛の消息参着す。当時洛中殊なる事無しと。右馬の允小野家長、去年十二月三十
  日解官せらるてえり。これ成尋法橋の子息なり。御吹挙を蒙らず、自由の任官の間、
  父子共御気色快らず。仍って召名を停めらるべきの由、申請せらるるが故なり。
 

1月28日 丁丑 晴
  幕下二所御精進の為、由比浦に出御す。水干を着し鴾毛の馬に駕し給う。小早河の次
  郎惟平御劔を持つ。上総の介義兼・江間の四郎主已下扈従五十人に及ぶ。潮に浴せし
  め給うの後、御浄衣に改め着せらると。