1191年 (建久2年 辛亥)
 
 

4月1日 戊寅 雨下る [玉葉]
  除目殊なる事無し。因幡の前司中原廣元(大博士廣季男なり。頼朝卿腹心なり)、明
  法博士(剰任先例無きか)並びに左衛門大尉(上古大尉を任ず。近代頗る希れ。為義
  大尉に任ずと)に任ず。即ち使の宣旨を蒙る。この事如何。家すでに文筆の士なり。
  期する所大外記・明経博士なり。而るに今の所任天下の耳目を驚かす。この事通親卿
  追従の為諷諫を加うと。人縦えば教訓を加え、身自ら用ゆべからざるか。或いは云く、
  遂て靭負の佐に転ずべし。これ允・亮等の例なりと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。恐ら
  くは頼朝卿の運命尽きんと欲すか。誠にこれ師子中の虫師子を喰うが如きか。
 

4月2日 己卯 午後天晴 [玉葉]
  今朝、能保卿使を送り申して云く、近江の国佐々木庄は、延暦寺千僧供庄なり。而る
  に未進有りと称し、寺家より宮仕法師数十人を遣わし、佐々木の太郎定綱の住宅を譴
  責す(件の定綱在京す。その子在国すと。定綱近江の国総追捕使として、頼朝卿殊に
  召し仕う所の武士と)。過酷法に過ぎ、遂に以て放火す。近辺の人屋多く以て焼失し
  をはんぬ。然る間、定綱郎従等、多く以て出来し、宮仕法師等を凌轢しをはんぬ。こ
  の意趣に依って、定綱の京の住所を焼失すべきの由風聞す。事大事に及ぶか。
 

4月3日 庚辰
  鶴岡の臨時祭例の如し。今日幕府事始め。去る月の火事に依ってなり。盛時・俊兼こ
  れを奉行す。

[玉葉]
  午の刻ばかりに、宗頼来たり申して云く、顕眞の許に仰せ遣わすの処、請文に云く、
  この事、山門の騒動に及ぶか。凡そ近日山上飢饉の間、近江の国中、無道の沙汰充満
  すと。仍って頻りに禁制を加うと雖も、敢えて承引せず、遂にこの大事に及びをはん
  ぬ。但し且つは法皇の還御を相待つべし。また関東に触れ遣わさるるの間、暫く狼藉
  を停止すべきの由、御教書を賜う。制止を加えんと欲すてえり。余仰せて云く、この
  状を以て、能保卿の許に仰せ遣わすべし。兼ねてまた申請に任せ、御教書を書き賜う
  べしてえり。
 

4月5日 壬午
  大理(能保卿)並びに廣元朝臣等の飛脚参着す。各々書状を献らる。去る月の比、佐
  々木小太郎兵衛の尉定重、近江の国彼の庄に於いて、日吉社の宮仕法師等に刃傷す。
  仍って山徒蜂起し、所司奏状を捧げ参洛す。定重の身を賜うべきの由これを申す。ま
  た延暦寺の所司等を関東に差し進すべきの由風聞す。朝家の大事忽然出来す。その濫
  觴は、近江の国佐々木庄は延暦寺千僧供領なり。去年水損の愁い有り、乃貢太だ闕乏
  するの間、定綱(定重父)と云い土民と云い、これを沙汰し送らんと欲するに所無し。
  仍って衆徒等、去る月下旬、日吉社の宮仕等を差し遣わす。日吉の神鏡を捧げ、定綱
  の宅に乱入し門戸を叩き、城壁を破り、家中の男女を譴責し、頗る恥辱に及ぶ。時に
  定重一旦の忿怒に堪えず、郎従等をして宮仕一両人に刃傷せしむ。この間誤って神鏡
  を破損すと。

[玉葉]
  佐々木定綱狼藉の事、山門の衆徒、三綱等を差し、或いは熊野道に進し、或いは関東
  に遣わすと。彼の成敗を待つの間、暫く落居すと。(略)或る人云く、頼朝卿の女子、
  来十月入内すべきと。此の如きの大事、ただ大神宮・八幡・春日の御計なり。人意の
  成敗に非ざるものか。今日巳の刻この事を聞く。
 

4月6日 癸未
  佐々木の三郎・同五郎等近江の国に赴く。これ定綱を訪わんが為なり。

[玉葉]
  午の刻、延暦寺所司三綱、日吉社宮司等参り来たる。三綱申して云く、大衆云く、近
  江の国佐々木庄は、当時千僧供庄なり。而るに若干の未済に依って、宮仕法師等を遣
  わし頗る以て譴責す。然る間、自ら火を宅に放ち、宮仕等これを打ち滅す。猶これに
  付き、遂に以て焼失しをはんぬ。宮仕等退帰せんと欲するの処、三方の橋を引き、人
  通りを得ず。一方に路有りて、僅かに逃げ去る。時に数十騎の軍兵出来し、刃傷殺害
  す。疵を蒙るの者太だ多し。終命の者両三。事の奇異、先代未だ聞かず。(略)仍っ
  て定綱並びに子息等を衆徒の中に賜り、七社の宝前に於いて子細を問うべし。先達尊
  下の御続、而るに天廰を驚かすべし。即ち三綱一人を差し、南山に進すべきなり。兼
  ねてまた所司一人を差し、関東に達すべしと。
 

4月8日 乙酉
  南御堂の仏生会なり。御礼仏の為幕下並びに御台所・若公等御参り。

[玉葉]
  今旦、能保卿使を送りて云く、山の大衆蜂起す。定綱を閣き、能保を以て質に取るべ
  きの由議定すと。この事為すに堪え難きが如何。余云く、この事、一切信受せられず。
  人を損ず凶害たらば、申し出る所か。更に驚き存ぜらるべからず。
 

4月9日 丙戌
  佐竹別当常陸の国より参上す。今日営中に於いて盃酒を献る。幕下御入興の気有りと
  雖も、山門騒動の事思し食し悩むに依って、数巡の儀に及ばずと。
 

4月11日 戊子
  定綱佐々木庄を逐電するの由その聞こえ有り。これに就いて群議を凝らさるる事有り
  と。定めて関東に参向するの由、幕下仰せらるると。
 

4月15日 壬辰 天霽
  鶴岡宮寺に始めて安居を結ぶ。
 

4月16日 癸巳
  梶原平三景時使節として上洛す。これ延暦寺衆徒、定重党類を申請すべきの由強訴に
  及ぶの旨、罪科遁れる所無くば、早くその科に行わるべきの旨、奏聞せらるるに依っ
  てなり。また所司参向すべきの由風聞するの間、遮って此の如しと。
 

4月20日 丁酉 天晴 [玉葉]
  この日、賀茂祭なり。午の刻、親国来たり云く、警固の上卿右衛門の督と。(略)法
  皇御見物有りと。
 

4月26日 癸卯 天霽、風静まる
  鶴岡若宮の上の地に、始めて八幡宮を勧請し奉らんが為、宝殿を営作せらる。今日上
  棟なり。奉行は行政と。幕下御参り。今日後藤兵衛の尉基清使節として上洛す。定綱
  ・定重の事に依って、山門の訴え更に休み難し。殆ど定重を斬罪に行わるべきの由を
  申すと。飛脚連々到来するの間、重ねてこの儀に及ぶ。先度言上し給うの趣に於いて
  は、すでに叡聞に達す。これに就いて内々宥め仰せらるると雖も、衆徒更に静謐せず
  と。然ればもし左右無く梟罪に及わば、景時私に衆徒に懇望せしめ、佐々木庄已下定
  綱知行所半分、未来の際を限り山門に附け奉るべきの趣、問答すべきの由仰せ遣わさ
  ると。

[玉葉]
  卯の刻、法印書を送り告げて云く、山門衆徒、只今下洛の由聞き及ぶ所なりてえり。
  すでにその実有り。京極寺に集会すと。倒衣内裏に参る。人無し。ただ能保卿・宗頼
  朝臣等候す。余大理に仰す。官人並びに武士等を催し、陣口に候せしむべきの由これ
  を下知す。而るに官人一切候せず。志府生僅かに両三人なり。その外皆院に候すと。
  仍って能保使を差し、院の近臣に触る。武士、前の将軍の侍三人(時定・高綱・成綱)
  の中、相並び五六十騎に及ばず。また遠江の守義定(去る比坂東に下りをはんぬ)の
  郎従十騎ばかり召し候せしむ。自体頗るオウ弱と。(略)大衆町を過ぎ、陣中半ばに
  及ぶと。仍って史以業を以て、陣外に候し、所存を申すべし、猥に陣中に乱入する理
  然るべからず。訴訟の裁許は、陣中・陣外に依るべからず。慥に罷り退くべきの由こ
  れを仰す。この間、守護の武士頗る闘諍に及び、相互小刃傷有りと。然れども、深く
  制止を加え、殊に大事に及ばざるか。良久くして、以業帰り来て云く、全く院中に参
  入すべからず。ただ訴訟成敗を以て望みと為すべし。その趣、具に奏状に載せ言上先
  にをはんぬ。(略)亥の刻、宗頼帰り来たり、院宣を伝えて云く、重々衆徒に仰せら
  るる旨、一々叡慮に叶い、尤も神妙に思し食す。大衆の申状、また聞こし食しをはん
  ぬ。先ず衆徒不当の條々、仰せ下さる。訴訟の條に至りては、定綱、その身もし候は、
  召し給うべきの処、すでに以て逃げ脱しをはんぬ。召し出され、御沙汰有るべきなり。
  関東に仰せられ、その身を召し出すの間、暫く帰山すべきの由、仰せ下さるべしてえ
  り。禁獄の條に於いては、仰せらるべからず。彼進せ申さざるの上、また遠流に過ぐ
  べからざるが故なり。兼ねてまた衆徒承諾せず。猶神輿を棄てらば、座主慥に本社に
  送り奉るべきの由、召し仰せらるべしてえり。御定の趣を以て、座主に仰せをはんぬ。
  頃之、座主申して云く、衆徒猶愁うと雖も、勅許無し。所詮、件の定綱、京畿諸国に
  仰せ、その身を召し進すべきの由、宣旨を下されてえり。これを以て一分の裁許たる
  べしと。この趣を以て、また奏聞せんと欲するの処、蔵人基保来たり申して云く、衆
  徒神輿を棄て逐電しをはんぬ。ただ宮仕神人、少々神輿の辺に在りと。(略)この後、
  行わるべきの事等、人々と相議す。今日の子細、具に関東に触れ遣わすべし。またこ
  の後、座主に仰せ合わされ、禁獄もし請け申さば、徒年に満つべきの由、並びに流罪、
  また召し返さるべからざるの由、仰せらるべきかと。即ち宗頼朝臣を差し、衆徒の申
  状、並びに退散の次第・御輿の事・人々定め申す旨等を奏しをはんぬ。
 

4月27日 甲辰
  相模の国生澤直下社の神主清包と地頭土屋の三郎と、御前に於いて一決を遂ぐ。これ
  清包、地頭の為社内の桑を切り取らるるの由訴え申す所なり。土屋一旦論じ申すと雖
  も、停止すべきの旨仰せられをはんぬ。行政これを奉行す。御前に於いて対決の事輙
  からずと雖も、神社の事たるに依って此の如しと。

[玉葉]
  早旦宗頼を以て院に奏して云く、神輿猶途中に在り。祇園の神人渡し奉ると雖も、衆
  徒少々近辺の小屋に隠居し、神人等を凌轢す。仍って神輿の辺に寄ること能わずと。
  再三座主に仰すと雖も、敢えて力及ばずと。早く使の廰に仰せ、散在の衆徒を追却せ
  らるべきか。兼ねてまたこの後の成敗、座主已下を召し、仰せ合わさるるべきか。
 

4月29日 丙午 天晴 [玉葉]
  今日早旦、座主また衆議一同の子細(定綱並びに子三人配流、下手人禁獄と)を申す。
  同じくその旨を奏す。殊に院聞こし食すの旨仰せ有りと。また明日(三十日)配流の
  事を行わるべし。凶会と雖も、此の如きの急事、先例強ち日を撰ばず。今日に於いて
  は、復日憚り有るべきの由、言上しをはんぬ。座主また申して云く、神輿明日の内、
  山上に迎え奉るべし。五月会に依ってなりと。
 

4月30日 丁未 雨降る
  延暦寺の所司弁勝・義範等参着す。先ず横大路(営の南門前)に徘徊し事の由を申す。
  仍って基清の家を点じ、彼の二人を招き入れらる。先ず酒肴を賜う。次いで俊兼・盛
  時等を遣わし問答せしめ給う。衆徒の状を献上す。定綱父子の身を給うべきの由これ
  を載す所なり。また彼の父子の外、下手人と称し交名を注進す。これ去る三月佐々木
  庄に於いて、山門使を凌礫す。その張本は所謂、堀池の八郎實員法師・井伊の六郎眞
  綱・岸本の十郎遠綱・源七眞延・源太三郎遠定等なり。而るにその身を敵讎に召し渡
  すの例無きの由、仰せ再三に及ぶと。

[玉葉]
  宗頼来たり云く、院仰せに云く、流人、国司官の沙汰に計るべしと。即ち官に仰せ、
  これを注進せしむ。その状に付け宣下すべきの由仰せをはんぬ。