1191年 (建久2年 辛亥)
 
 

5月1日 戊申
  延暦寺の所司等帰洛す。馬二疋・色々の染絹三十段を賜う。また御返報を遣わさると。

[玉葉]
  山門より鎌倉に遣わすの使者すでに帰り来たる。定綱を大衆の中に召し賜うべきの由、
  分明の裁断。しかのみならず、饗応使等、すでに法に過ぎ、当社を帰敬し、鄭重甚深
  と。悪徒この趣を聞き、いよいよその力を得て、遠流の裁許、更に以て言い足らざる
  たりと。誠にこれ天魔の所為なり。左右に能わずと。
 

5月2日 己酉
  大夫の尉廣元の飛脚京都より参着す。大理書状を献らる。去る月二十六日、山門衆徒
  左衛門の尉定綱を訴え申さんが為、八王子・客人・十禅師・祇園・北野等の神輿を頂
  戴し、閑院皇居に参るの間、則ち群議有り。罪名死罪一等を減じ、遠流に処せらるべ
  しと。その趣定めて宣下せらるるか。また遠江の守義定朝臣の飛脚参り申して云く、
  当時禁裡守護の番なり。去る月二十六日神輿入洛の時、家人等相禦ぐに依って、闘戦
  を発すべからざるの由、頻りに別当の宣有るの間、謹慎するの処、家人四人・同所従
  三人、忽ち山徒の為刃傷せらる。朝威を仰ぎ神鑒を怖れるに依って、すでに勇士の道
  を忘れるが如し。殆ど人の嘲りを招くべきかと。この事その沙汰有り。善信・行政・
  俊兼・盛時等召しに依って参上す。
 

5月3日 庚戌
  奏書を高三位(泰経卿)に付けらる。善信これを草す。俊兼清書なり。申の刻、雑色
  成里これを帯し上洛す。その状に云く、
   言上
     事由
   右定綱の濫行に依って、叡山より遣わす所の使者、所司二人義範・弁勝、去る月三
   十日到着す。その状に云く、罪科に依って、定綱並びに子息三人を衆徒中に預け賜
   わんと欲すと。この外の子細、使者の詞に尽くす。仍って去る一日返報を與う。ま
   た愚意の及ぶ所に相遇して、答えて云く、定綱の狼逆左右に能わず。爭か重科を遁
   れんか。風聞の説に随い、即ち以て去る月十六日・同二十六日罪科に行わるべきの
   由、両度叡聞に達しをはんぬ。罪名に任せ仰せ下されんか。但し召し賜うべきの儀
   を存ぜば、言上を経ず。先ず頼朝に触れしめば、進止すべきの処、今衆議に付け召
   し渡さば、恐れ聖断を軽んずるに似たり。また私に有るに非ざるか。交名の輩その
   身を召し、院の廰に進すべきなり。宜しく勅定を待たしむべしと。然れども衆徒註
   し申す旨有らば、重ねての状に随い左右有るべきの由相存ずるの処、去る月二十六
   日(辰の刻)を以て、禁闕に群参し、神輿を振り奉り、声を発し濫訴し主上を驚か
   せ奉るの條、言い足らざる事なり。この義を存ぜば、下使を差すべからず。また使
   者を遣わし返事を待つべきか。而るに下洛を待ち計るの條、心と事と相違す。更に
   本意に非ず。頼朝苟も忠貞の奉公を以て、家業を継ぎ朝家を守る。衆徒何の意趣有
   って、強ち奇謀を廻らし待ち計らしむるや。欝望の至り、啓して余り有り。定綱を
   配流し下手を禁獄するの由宣下すでにをはんぬ。誠にこれ明時の尋範なり。而るに
   衆徒勅裁に背かんと欲せば、本より送達を経るべからず。罪科を定め頼朝に触れば、
   先例を顧みず、斬罪に行うべし。また衆徒の趣に随うべきの処、綸言に背き乱入を
   企つ。凡そ是非を弁えざるの性、宛も木石に異ならざるか。定綱の有罪を寛宥し、
   山王の霊威を蔑如し、衆徒の鬱憤を成すべきの由、縁底存知をはんぬ。縦え頼朝の
   身と雖も、その咎有るの時は、公家より何ぞ御沙汰無からんや。抑も頼朝、天台の
   為法相の為、忠節有りと雖も、更に疎略無し。その由何なれば、義仲謀反の日、座
   主明雲を誅す。幾程を経ず義仲を追討しをはんぬ。重衡狼唳の時、南都を焼き払い
   僧徒を誅す。而るに重衡を生虜り、同所に首を刎ねをはんぬ。彼等惣て一朝の讎た
   りと雖も、これ二宗の敵に非ざるか。爰に南都この志に感悦す。叡岳未だ一言を致
   さず。今宮仕法師を刃傷せらるるの忿怒を以て、忝なくも公家を驚かせ奉る。固よ
   り知る、義仲の為貫首を誅せらるるの時、何ぞ蜂起し敵対せざるか。その勝劣と謂
   うは、貫首と宮仕と如何。義仲の如きは惜まざる所の者に有り。山門の訴えに出ず。
   仰崇有余の時、勝ちに乗り濫訴を企つ。後代の濫吹、兼ねて以て推察する所なり。
   縦え訴訟有らば、蜂起以て洛中に下らずと雖も、乱入以て喧嘩に及ばずと雖も、一
   通の奏状を捧げ、天聴に達せしめば、理有る事、裁許何ぞ拘わらんか。委細の旨筆
   端に遑あらず。就中今年三合の暦運に相当す。攘災の祈請を励ますべきの処、小を
   以て大と成し、心に與し事を発す。即ち吾山より騒動を致すの條、もしこれ僧徒の
   小徳行、将又因果の致す所か。凡そ逆徒と謂うべきか。これ則ち悪徒は多く、善侶
   は少なきか。然れば悪徒のその性瓦礫に似たりと雖も、善侶のその性爭か慚愧せざ
   らんか。宜しくこの旨を以て叡聴に達し給うべし。頼朝恐惶謹言。
     建久二年五月三日       頼朝
   進上 高三位殿
    追って言上す
   遠江の守義定大内守護を奉るに依って、郎等を差し置く。而るに衆徒乱入するの時、
   官兵として召し付けらるるか。勅定に依って神威を仰ぎ、手を衆徒に懸けざるの処、
   濫行の余り、勝ちに乗り彼の郎等四人・同所従三人を刃傷するの由、義定の申状に
   依って承る所なり。人の申状を以て此の如く言上するは、もし僻事相交らんか。縦
   え驚駘すと雖も、鞭を負わば何ぞ馳騁の心に無からんか。斯言の如きは、官兵当時
   の陵辱に堪えず。もし敵対せしめば、衆徒不慮の夭命を遁れず。また数多の罪業出
   来すか。然れども神威を仰ぎ綸言を守り手に懸けず。これを以て愚存するに、自身
   の威猛還って官兵を凌轢するの由を称す、咲うべきか。乱逆出来するの時、官兵を
   以て朝家を守る。而るに彼の日の武士を刃傷すること、その咎如何。衆徒訴え申す
   の旨に於いては、勅許有るべからざるか。重ねて恐惶頓首謹言。
 

5月7日 甲寅 天陰 [玉葉]
  夜に入り宗頼院の御使として来たり云く、頼朝卿の申状此の如し。計り申すべしてえ
  り(定綱罪科の間の事なり)。申状分明、すでに当時行わるる所の趣、自然符合しを
  はんぬ。尤も神妙の由奏しをはんぬ。兼ねてまた山僧の不当等、誡めらるべきの事、
  仰せ下さる。谷々の学頭を召し、私家若くは陣の辺に於いて、子細を仰せ含むべしと。


5月8日 乙卯
  佐々木左衛門の尉定綱等の事、山門の訴えに依って、下さるる所の去る月二十六日の
  口宣、同二十八日の院宣の案文等到着す。また同二十九日定綱等の罪名を定められを
  はんぬ。去る一日神輿御帰座と。
   流人                           (小太郎と号す)
    左衛門の尉源定綱(薩摩の国) 左兵衛の尉廣綱(隠岐の国)
    左兵衛の尉定重(対馬の国)  同小三郎定高(土佐の国)
   禁獄五人
    堀池八郎實員法師  井伊の六郎眞綱  岸本の十郎遠綱
    源七眞延      源太三郎遠定
  権中納言泰通卿参陣す。頭中宮亮宗頼朝臣流人の事を仰す。右大弁資實に仰せ、結政
  の請印、左宰相中将(實教卿)・少納言信清等参行すと。
  口宣に云く、
     建久二年四月二十六日     宣旨
   近江の国住人源定綱、日吉社宮主を殺害するの由、衆徒の訴訟有るに依って、遠流
   に処せんと欲するの間、忽ち逐電の聞こえ有り。前の右大将源朝臣並びに京畿諸国
   の所郡官人に仰せ、宜しくその身を搦め進せしむべし。
               蔵人頭大蔵卿兼中宮亮藤原宗頼(奉る)
  院宣に云く、
   院宣せられて称く、近江の国住人源定綱、日吉社宮主等を殺害するの犯、罪科軽か
   らず。仍って先ず罪名を勘がえ、所当の罪科に行わるべきと雖も、勘録遅怠に及ぶ
   べきの上、且つは神明の威光を増さんが為、且つは衆徒の訴訟を優ずるに依って、
   定綱に於いては遠流に処し、下手の輩に至りては禁獄すべき所の由、宣下せられん
   と欲するの間、尚奏状に任せ、その身を申し給わずんば、欝結を散すべからざるの
   由、神輿を振り奉り、帝闕に濫訴す。縦え斬刑に行わずとも、その身を給うの條に
   於いては死罪に同ぜん。仍って都て以て裁許すべからず。凡そ件の刑法に於いては、
   嵯峨天皇以来、停止するの後多く年代を経る。仍って裁報を致さざるの間、神輿を
   振り奉り、即ち以て帰山す。違勅の上、いよいよ天聴を驚かすの科を添う。滅法の
   余り、更に神鑒を忘れるの咎を招く。就中当社を恭敬し当寺に帰依す。余社に超過
   し余寺を卓轢す。仏勅に背き、王事を蔑如せしむと雖も、若くは子細を仰ぎ聞かば、
   爭か自由を停めざらん。遠流の罪は再帰せず。禁固の法は徒年満たば、死罪に非ず
   と雖も更に勝劣無からんか。仍って遠流を以て死罪に比べ、禁固を以て斬刑に代え
   る。但し遠流の條、裁報尚足らずんば、禁固と雖も、申請に随い行わるべきか。抑
   も定綱逐電の聞こえ有り、罪科いよいよ以て重疉す。仍って京畿諸国に仰せ、慥に
   その身を搦め進せしむべきの由、宣下すでにをはんぬ。その間暫く欝訴を休め、裁
   断を待つべきの由、皆悉く門徒僧綱等を引率し、時刻を廻らさず、早く登山を企て、
   神輿を迎え奉るべきの由、殊に仰せ含めしめ給うべし。兼ねてまた梟悪の輩、狼唳
   止めずんば、各々同心し制止の詞を加え、宜しく衆議和平の計を廻らすべし。てえ
   れば、院宣此の如し。仍って以て上啓件の如し。
     四月二十八日         大蔵卿宗頼(奉る)
   謹上 天台座主御房
 

5月12日 己未
  大夫の尉廣元、去る月二十日賀茂祭に供奉し、院の御厩の御馬を賜う。則ち御厩舎人
  (金武)を具す。凡そ眉目を施すと。その間の記録これを進す。また申して云く、上
  皇御願として、近江の国高嶋郡に五丈の毘沙門天像を安ぜられ、近日供養の儀有るべ
  しと。善信その事を聞き、申して云く、彼の像は、去る養和の比、仙洞に於いて仏師
  院尊法印に仰せ、これを作り始めらる。幕下仰せて曰く、この事度々風聞有る所なり。
  平相国在世の時より造立し奉る。推量の及ぶ所、源氏調伏の為か。頗る甘心せずと。
  仍ってその趣内々廷尉の許に仰せ遣わさると。
   建久二年四月二十日丁酉  賀茂祭
   大夫の尉 中原廣元(院の御馬を賜う。厩舎人金武共に在り。赤色上下・款冬衣)
        大江公朝   源季国   橘定康
   六位の尉 籐能宗    中原章廣  源清忠   中原章清
   志    中原経康      中原職景  安部資兼
   府生   紀守康
   馬助   仲通
   中宮使  権の亮忠季朝臣(左中将)
   近衛使  右少將保家朝臣
   山城の介 源盛兼
   内蔵助
   典侍   平宣子(大納言時忠卿の女)
 

5月14日 辛酉 天晴 [玉葉]
  宗頼朝臣、院の御使として来たり云く、頼朝卿の申状此の如し。何様沙汰有るべきや
  てえり。その状に云く、山門の衆徒奇怪の由なり。また近江の国守護の事等これを申
  す。余申して云く、衆徒の事、この状を以て座主に賜い、山上に披露すべきか。近江
  守護の事、御計有って御返事を仰せらるべきかてえり(愚案、猶頼朝卿、直正の武士
  を以て守護せしむべき事か)。
 

5月17日 甲子 陰晴不定 [玉葉]
  定綱配所に赴くの間、数多の甲兵を率す。また子息三人同船、海路より向かうべきの
  由これを申す。領送使等、その力及ばざるの由申し上げる所なり。仍って大理の許に
  仰せ遣わし、定綱の陳状を取り進す。仍って今朝隆職を召しこれを問う。重ねてまた
  領送使の申状を召し進せ、官掌を以て使と為し、重ねて別当の許に仰せ遣わしをはん
  ぬ。尋ねるべきの由申す所なり。
 

5月20日 丁卯
  近江の国辛崎の辺に於いて、佐々木小次郎兵衛の尉定重、流刑を止め梟首せらる。こ
  の事、日来この難を遁るべきの様、幕下賢慮を廻らせらると雖も、山徒の欝陶、遂に
  以て宥め仰せらるる所無しと。この事景時の奉りたり。
   左兵衛の尉源朝臣定重 佐々木の源三秀能孫、左衛門の尉定綱二男
   年月日任ず。
 

5月24日 辛未 天晴 [玉葉]
  宗頼朝臣来たり、條々の事を申す。伊勢の国の地頭の間の事なり。先日頼朝卿の奏請
  に依って、官使を彼の国に遣わす。彼の卿の使者を相副え、子細を尋ね捜し帰参す。
  文書数合に及ぶ。官に仰せ、肝心の事を注進せしむなり。余仰せて云く、関東に仰せ
  遣わすべきの事等を注出し、その上神宮上卿(實家卿領状と)の亭に於いて、寄人を
  定め評定を加え、関東に仰せ遣わすべし。この旨奏聞すべきの由仰せをはんぬ。