1191年 (建久2年 辛亥)
 
 

8月1日 丁丑 雨降る。終日休止せず
  今日、大庭の平太景能新造の御亭に於いて盃酒を献る。その儀強ち美を極めず。五色
  の鱸魚等を以て肴物と為す。足利上総の介・千葉の介・小山左衛門の尉・三浦の介・
  畠山の次郎・八田右衛門の尉・工藤庄司・土屋の三郎・梶原平三・同刑部の丞・比企
  右衛門の尉・岡崎の四郎・佐々木の三郎等その座に候す。勧盃の間、仰せに依って各
  々往事を語り申す。景能保元合戦の事を語る。この間申して云く、勇士の用意すべき
  は武具なり。就中、縮め用ゆべきは弓箭の寸尺なり。鎮西八郎は、吾が朝無双の弓矢
  の達者なり。然れども弓箭の寸法を案ずるに、その涯分に過ぎるか。その故は、大炊
  御門の河原に於いて景能八男の弓手に逢う。八男弓を引かんと欲す。景能潛かに以て
  貴客と為すてえり。鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか。景能
  東国に於いて能く馬に馴れるなりてえり。則ち八男の妻手に馳せ廻るの時、縡相違し、
  弓の下を越えるに及び、身に中たるべきの矢、膝に中たりをはんぬ。この故実を存ぜ
  ざれば、忽ち命を失うべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。壮士等耳の底に留
  むべし。老翁の説嘲哢すること莫れと。常胤已下当座皆甘心す。また御感の仰せを蒙
  ると。

[宗像神社文書]
**関東御教書案
  宗像前の大宮司氏家申す当神領内本木内殿等地頭職の事、府廰に於いては両方を問註
  すべきの由、仰せ遣わし先にをはんぬ。仍って氏家の進す所の問註の詞を引勘するの
  処、氏家理を得をはんぬ。高房の知行を停止し、以て氏家に領掌せしむべし。但し有
  限の神役懈怠すべからざるの由、氏家に含めをはんぬ。抑も高房に於いては御下文を
  所帯せば、慥に召し進すべきなり。また下文に於いては、氏家賜らざる者なり。てえ
  れば、鎌倉殿仰せの旨此の如し。仍って執達件の如し。
    建久二年八月一日        盛時(奉る、在御判)
  籐内民部丞殿
 

8月3日 己卯 天晴 [玉葉]
  今旦、佛厳上人を召し、空諦の進す所の仏舎利を見せしむ。眞の舎利かの由を申す。
  然れども不審に依って、砥を召しこれを磨かせむ。舎利漸減す。爰に偽物を知るか。
  また妙出秘経等を見せしむ。大略詐欺物かと。(略)空諦の罪業、無間の中劫に当た
  るか。悲しむべし。
 

8月6日 壬午
  御移徙の後、御行初めの儀有り。申の刻、八田右衛門の尉の家(これまた新造)に渡
  御す。近々の間御歩儀なり。糟屋籐太兵衛の尉御劔を役す。武蔵の守・上総の介以下
  供奉人済々焉たり。知家御引出物を献る。宇都宮の四郎御劔を持参す。子息兵衛の尉
  朝重御馬を引く。
 

8月7日 癸未
  幕下の御外甥僧任憲、熱田社領内の御幣田を相伝するの処、勝實と号すの僧の為これ
  を妨げらる。勝實すでに奏聞を経るの間、任憲解状を整えまた奏達せんと欲す。仍っ
  て幕下の御挙状を望み申す。幕下頗る御猶予の気有り。故祐範(任憲父)の功に報ぜ
  んが為、縦え他の計略を廻らす。この執奏に於いては難題と。而るにこれ先人亡骨の
  在所なり。相構えてこれを達せんと欲するに、他事曽て拠所無きの由重ねて言上する
  の間、今日慇懃の御書を彼の解状に相副え、高三位に付けらると。
   僧任憲の解状(具事等を副ゆ)謹んでこれを進上す。此の如き事、執り申すべから
   ざるの由存じ候て、大略慎みを成して申し上げず候。而るに少事には候へども、論
   人勝實掠め申し候の間、当時一方の申状に依って仰せ下され候か。勝實道理を帯し
   候わば、何ぞ上西門院の御時裁許を蒙り候わざるか。更にこの條子細を申し披き難
   きの由、任憲歎き申し候に依って、恐れながら言上し候所なり。この旨を以て洩れ
   御披露せしめ給うべく候。恐惶謹言。
     八月七日           頼朝
   進上
    私に申し候
    件の祐範と申し候は、頼朝母堂の舎弟にて候き。而るに舎弟たりながら、取り別
    け糸惜しみ候し故、その恩を思い知り候て、頼朝母堂逝去の時は、七々の仏事、
    祐範沙汰し候て、澄憲法印導師として勤修して候き。また平治の乱の後、頼朝配
    流せられ候し時も、祐範人を付け候て配所の国まで送り付け候て、その後彼の恩
    問を忘れず候き。然れば頼朝母堂の為には菩提を訪い候き。頼朝の為には忠を施
    して入滅し候いをはんぬ。而るに今任憲この由を歎き申し候。いかにも憐愍候て、
    執奏すべからざるの由深く存じ候に、任憲自余の事をば思わず、この事を歎き思
    い候の由強いて申し候の間、且つは祐範の旧好に報ぜんが為、且つは任憲の愁歎
    を散ぜんが為、此の如くわりなく言上し候なり。然りと雖もその理無く候はんを
    ば、枉げて仰せ下さるべきの儀、爭か存念候か。但し祐範年来知行の由、勝實前
    にも沙汰を致すと雖も、御裁許を蒙らざるの処、今更改め申す由申し候へば、言
    上し候なり。勝實誠にその理候はば、故女院の御時、何ぞ件の所を給いテ知行せ
    ず候か。然れば祐範多年領掌の由緒に依って、任憲相伝すべきの由仰せ下され候
    わば、頼朝の身に取り候て然るべき事に候なむ。祐範の恩に報ぜんが為、此の如
    く申し上げ候の條、何事もわりなく言上すべからざるの由、執り思い候つる意趣
    すでに相違し候。この旨を以て申し入らしめ給うべく候。恐々謹言。
 

8月15日 辛卯
  鶴岡放生会、幕下御参宮。経供養、導師は安楽坊重慶。童舞(筥根兒童と)有り。
 

8月16日 壬辰
  御奉幣昨の如し。神馬二疋を進せらる。流鏑馬・競馬例の如し。
 

8月18日 甲午
  この間人々の進す所の馬新造の御厩に立てらる。本より立て置かるる所の御馬と相並
  べ用捨有り。先ず南庭に於いて御覧ず。十六疋なり。下河邊の四郎政義・梶原兵衛の
  尉景茂・狩野の五郎宣安・工藤の小次郎行光・佐々木の五郎義清等これに騎る。俊兼
  毛付を役す。
   一疋(鴾毛) 上総の介進す    一疋(糟毛)千葉の介進す
   一疋(黒栗毛)北條殿御分     一疋(青駮)武田の五郎進す
   一疋(鴾毛) 小山左衛門の尉進す 一疋(鴾毛)葛西の三郎進す
   一疋(黒鹿毛)畠山の次郎進す   一疋(鹿毛)小山の七郎進す
   一疋(黒)  下河邊庄司進す   一疋(葦毛)和田左衛門の尉進す
   一疋(鹿毛) 小山の五郎進す   一疋(鴾毛)宇都宮の四郎進す
   一疋(栗毛) 土屋の三郎進す   一疋(栗毛)三浦の介進す
   一疋(鴾毛) 足立左衛門の尉進す 一疋(黒) 梶原平三進す
 

8月21日 丁酉 [玉葉]
  懺法三時をはんぬの後、法然房源空上人に請い、受戒をはんぬ。夜に入り、また懺法
  を読む。即ち余念仏を始む。女房読誦を始むなり。その法如法経行儀の如くなり。
 

8月27日 癸卯
  鶴岡の若宮並びに末社熱田・三嶋社の廻廊等上棟と。