1191年 (建久2年 辛亥)
 
 

10月1日 丙子
  佐々木の三郎盛綱・宮六兼仗国平等の沙汰として、奥州並びに越後の国より駿牛十五
  頭を召し進す。今日御覧有り。これ法住寺殿、義仲叛逆の時悪徒乱入し、また文治元
  年の地震に悉く頽傾するの間、関東の御沙汰として修理を加えらる。その牛屋を立て
  られんが為なり。而るにこの牛然るべからざるの由、前の少将時家・大夫屬入道善信
  等これを申す。仍って京都の奔波に於いては、還って所詮無きに似たり。御馬を以て
  牛の替わりと為すべきの由、御沙汰有りと。
 

10月2日 丁丑
  御随身左府生兼峯、去る比使者を進す。所領紀伊の国三上庄の地頭を停止せらるべき
  の由訴え申す所なり。これ任大将御拝賀の時供奉以降、功有る者なり。仍って申請の
  旨に任せ、左右無く地頭職を停止すべきの旨仰せ下さる。地頭は豊嶋権の守有経なり。
  替わりを賜うべきの趣、また有経に仰せらると。
 

10月10日 乙酉
  成勝寺執行昌寛法橋使節として上洛す。これ法住寺殿修造の間、前の掃部の頭親能・
  大夫判官廣元・昌寛三人の行事を差し置くなり。而るに昌寛去る比召しに依って帰参
  すと雖も、その功を終えんが為、重ねて以て上洛すと。
 

10月17日 壬辰
  卯の刻、大姫君御違例。太だ御辛苦の由、諸人群参すと。
 

10月20日 乙未
  廣元朝臣明法博士を辞すべきの由これを申し送る。関東に祇候するの輩、顕要の官職
  を以て恣に兼帯すること然るべからず。辞せしむべきの旨仰せ下さると。
 

10月22日 丁酉
  信濃の国善光寺供養の曼陀羅供。大阿闍梨中納言・阿闍梨忠豪。請僧は当寺の住侶な
  り。治承三年回禄の後、適々新造有りと。
 

10月25日 庚子
  来月鶴岡遷宮有るべきの子細、群議を擬さる。行政・善信・盛時・俊兼等これを申し
  沙汰す。当宮の別当その座に候し、條々申し定めらる。てえれば、宮人の曲を唱わし
  めんが為、多の好方を召し下すと。