1191年 (建久2年 辛亥)
 
 

11月3日 戊申
  御馬三疋(共に鴾毛)日来三浦の介に預け置かる。今日京都に遣わさる。これを労り
  飼い、仙洞御移徙の後、朝進上すべきの由、廣元朝臣の許に仰せらると。
 

11月8日 癸丑
  大姫君の御不例復本し御う。日来懇祈を致さるる所なり。これ御邪気と。
 

11月12日 丁巳
  北條殿の室家京都より下向し給う。兄弟武者所宗親・外甥越後の介高成等相伴わると。


11月14日 己未
  梶原平三景時由比の辺に於いて、男一人を搦め取る。これ反逆の余党の由自称す。景
  時名字を問うと雖も、直に幕下に申すべきの由これを称し発言せず。仍って召し進す。
  幕下簾中に於いてこれを覧る。朝宗・俊兼を以て申す詞を記さる。故伊豆右衛門の尉
  の家人前の右兵衛の尉平康盛なり。北條平六左衛門の尉を謀らんが為窺行するの処、
  微運此の如し。金吾は前の豫州(義顕)の聟なり。彼の叛逆に與同するの間、平六を
  遣わし誅せられをはんぬ。その宿意を果たさんが為か。鶴岡遷宮以後、罪名の沙汰有
  るべしと。
 

11月19日 甲子
  右近将監好方を召し、幕府に於いて盃酒を賜う。好方野曲を尽くす。善信御前に候し、
  助音太だ絶妙なり。また重忠・景秀等、仰せに依って当座に於いて神楽の曲を習う。
  両人器量の由、好方感じ申すと。
 

11月21日 丙寅 天霽風静まる
  鶴岡八幡宮並びに若宮及び末社等の遷宮なり。義盛・景時等、随兵を率い辻々並びに
  宮中を警衛す。その後幕下(御束帯・帯劔)御参宮。江間殿御劔を持ち御座の傍らに
  候ぜらる。朝光同じく参候す。すでに殿内に送り奉る。好方宮人の曲を唱う。頗る神
  感の瑞相有りと。
 

11月22日 丁卯
  多の好方等帰洛せんと欲するの間、政所より餞物を賜う。行政・仲業・家光等これを
  奉行す。その上別禄有り。馬十二疋と。参州同じく馬十疋を引かると。
  幕下より引き給う御馬
   一疋 おほくりげ  一疋 くりげこびたい  一疋 ささつきのひばりげ
   一疋 つきげ    一疋 あくりくろ    一疋 こかげ
   一疋 くろぶち   一疋 くろ       一疋 しらくりげ
   一疋 おほあしげ  一疋 くりげきめひたい 一疋 かげ
  参河の守引かるる馬
   一疋 くろかわらげ 一疋 かげ       一疋 あをさぎかすげ
   一疋 くろ     一疋 あしげ      一疋 おばなあしげ
   一疋 くりげ    一疋 かげ       一疋 かげ
   一疋 あしげ
  公文所送文に云く
   好方給う
    馬五疋の内
     一疋 くろ河原毛、あかくらをゝい   一疋 あをさぎかすげ
     一疋 かげ、黒ぬりのはりかは鞍    一疋 くろ
    荷鞍馬五疋
     一疋 あしげ    一疋 をなじ   一疋 くりげ
     一疋 かげ     一疋 かげ
    むかばき一懸(くまのかわ)   くつ  てぶくろ
    ながもち一合(内、あかおおい、だいゆたんあり)
    とのゐ物一領(めつはしのこん) 小袖七(白し)
    すいかんはかま一具(水干、こんくずばかま、いとくず)
    うすぎぬ二(白)        又こんの御こそで二
    ひたたれ十二具の内
     こん一具    あいずり六具    しろき二具   かき三具
     上品絹十疋   いろいろの布二十段 そめぎぬ十切  いろいろがわ十五枚
     えぼし二頭   ぬのさしなわ七方  白布二百段
   好節
    馬三疋
     一疋 つきげ(まきえ鞍)  一疋 くろ河原毛  一疋 かげ
    むかばき一懸(なつげ)  くつ  てぶくろ  のや一こし  ゆみ一張
    もへぎのいとおどしのはらまき一領
   府生公秀
    馬二疋の内
     一疋 かげ(くろぬりのはりかわ鞍)  一疋 かげ
    むかばき一懸(なつげ)  くつ  てぶくろ
   同守正
    馬二疋の内
     一疋 くりげ(くろはりがわ鞍)    一疋 にげ
    むかばき一懸(ふゆげ)  くつ  てぶくろ
   助直(備中の国吉備津宮助信の子)
    馬二疋の内
     一疋 かげ(くろはりがわ鞍)     一疋 かげ
    むかばき一懸(なつげ)  くつ  てぶくろ
     建久二年十一月日
   送夫二十一人
 

11月23日 戊辰
  遠江の国河村庄を以て、本主三郎高政北條殿に寄付し奉る。愁訴有るが故なり。
 

11月27日 壬申
  晩に及び、幕下北面の簀子に立たしめ給うの処、法師一人庭上に跪く。聊か御用心有
  り。三浦の太郎景連を以て子細を尋ね仰せらる。法師曰く、吾は駿河の守の童加世丸
  なり。自らの怨恨を守り発心せしめ逐電す。当時求法の為、上醍醐に住す。而るに頻
  りに慇懃の御扶持を蒙るの條忘れ難し。叛逆を挿み逐電するかの由、定めて疑貽有ら
  んや。早く事の由を申し披き、帰り来たるべきの旨示し付すが故、参る所なりてえり。
  仰せに曰く、何事を恨むか。更に申して云く、大将御拝賀の時、京都に馴れるの輩を
  撰び、供奉人に定めらるるの処、廣綱幼稚より洛陽に住すの上、官位を謂えば、また
  最初の御吹挙に就いて任ずるの間、一族に於いて上臈たり。然れどもその列に漏れを
  はんぬ。次いで駿河の国国務の事、望みを成すと雖もこれを達せず。両條眉目を失う
  に依って遁世す。今に於いては、彼すでに出離の知識たり。凡そ浮生の栄華に於いて
  は、庶幾せざる所なり。御没後の菩提を訪い奉る如き、恩徳に酬ゆべし。前後相違有
  らば、善処の引導を為すべしと。仰せに云く、この事両條共、更に恨みを称し難き事
  か。前駈は院より定めらるるの外、参州は兄弟たるの間、自余に準じ難きの條、相模
  の守以下これを存知せむ。敢えて所存を貽さず。廣綱独り何の憤念有るべきや。次い
  で国務の事は、叡慮を伺わずんば、私の計略に非ざるの処、左右を相待たず逐電し、
  行方を知らざるの間、力及ばざる次第なり。須く御使を汝に相副え、陳謝の状を遣わ
  すと。仍って暫く候せしむべし。旅宿を点じ招引すべきの由、景連これを示す。白地
  に出でをはんぬ。立ち帰り相尋ねるの処、彼の法師行方を知らずと。事の躰奇怪の由
  と。