1191年 (建久2年 辛亥)
 
 

12月1日 乙亥
  北條殿盃酒・椀飯を献らる。同室家御前に参り給う。縡すでに御引出物に及ぶと。三
  浦の介以下宿老の輩侍所に候し椀飯を行う。この間母屋に出御す。武者所宗親・越後
  の介高成等陪膳に候す。高成営中に恪勤せしむべきの由仰せ下さる。日来北條殿の眼
  代なり。然れども彼の家人他に異なるの上、室家の外甥たり。また文章有るに依って
  これを召し出さると。
 

12月6日 庚寅
  前の右兵衛の尉康盛、腰越の辺に於いてこれを梟首す。左衛門の尉義盛これを奉行す。
  去る月景時の搦め進す所なり。
 

12月11日 [東寺百合文書]
**源頼朝御教書案
     御判
  東寺修理上人勧進の為下向せらるる所なり。誰人仏法に志無からんや。疑心を成さず、
  結縁せしむべきの状件の如し。
    建久二年十二月十一日

[島津家文書]
**源頼朝下文案
     在御判
  嶋津庄住人忠久の下知に随わざるの由、その聞こえ有り。尤も不当の事なり。慥に件
  の下知に相従うべし。兼ねてまた、救二院平八成直僧を殺しをはんぬ。所行の至り不
  敵の事なり。件の所知に於いては、忠久の沙汰たるべきの状件の如し。
    十二月十一日

12月15日 己丑
  故土左房昌俊の老母下野の国山田庄より参上するの由これを申す。則ち御前に召す。
  亡息の事を申し出で、頻りに涕泣す。幕下太だ歎かしめ給い、綿衣二領を下さると。
  故豫州幕下に背き奉り給うの時、討手を遣わされんと欲するに及び、勇士等障りを申
  すの処、昌俊法躰たりながら領状す。遂に命を関東に奉るの間、没後の今に至るまで、
  精兵の比量に引かしめ給うと。
 

12月17日 辛卯 天陰、雪降る [玉葉]
  この日摂政を辞す。第五度の表、作者は右兵衛の督兼光卿、清書は伊経朝臣、使は左
  少弁宗国朝臣、勅答使は左少将成家朝臣等なり。(略)兼光卿を呼び、勅答を読まし
  む。即ち長房を召し函(勅答を納む)を給う。この勅答、即ち関白万機の由を載せる
  なり。
 

12月19日 癸巳
  鶴岡神事の為、山城の江次久家以下侍十三人を遣わす。神楽の秘曲を伝うべきの由、
  御教書を好方の許に成し下さるる所なり。
   鶴岡八幡宮神事の為、山城の江次久家以下侍十三人これを遣わさる。弟子として器
   量を撰び、早く神楽一座の所作を教立せらるべし。急ぎ沙汰し出ださるるの後、本
   社の如く、二季の御神楽を始行せんと、上落せらるべきなり。星弓立の歌は、秘事
   たるの由聞こし食す。然れば相伝の仁、重ねて仰せ遣わさるべし。且つはまたその
   志御存知有るべきなり。てえれば、鎌倉殿仰せの旨此の如し。仍って執達件の如し。
     十二月十九日         盛時(奉る、在判)
   右近将監殿
 

12月24日 戊戌
  親能・廣元等の使者京都より参着す。去る十七日、法住寺殿御移徙の儀有り。毎事無
  為と。大理その記を献らるる所なり。その日出仕の人々、摂政殿・右大将頼實・新大
  納言忠良・左大将良経・籐中納言定能・右衛門の督通親・坊門中納言親信・民部卿経
  房・権中納言泰通・別当能保・平中納言親宗・右兵衛の督隆房・左宰相中将實教・大
  宮権大夫光雅・籐宰相中将公時・左大弁定長・三位中将家房・左京大夫季能・籐三位
  雅隆・前の宮内卿季経・六條三位経家・新宰相中将成経・頭中将實明朝臣・頭大蔵卿
  宗頼朝臣以下なり。六條殿より出幸す。掃部の頭安部季弘朝臣反閉に候す。陰陽の頭
  賀茂宗憲朝臣新御所に候す。また反閉を奉る。黄牛二頭を引かる。殷富門院同じく入
  御す。少納言頼房・勘解由次官清長水火役に候す。また女房二位の局(前駈四人・衛
  府四人を具す)参上す。入御の後、五菓を供う。右大将これを進せらる。役送は定輔
  (修理大夫)・経中(播磨の守)等の朝臣。右大弁資實殿上に出で盃酌す。左大将以
  下着座せらる。一献は定輔盃を持参す。二献は左大弁定長。三献は平中納言親宗と。
  翌朝、前の掃部の頭親能(薄青織の襖・狩衣)・大夫判官廣元(白襖・一斤染衣・平
  礼、帯劔せず)召しに依って御所堂上に参る。親能左中将親能朝臣を以て御劔(錦の
  袋に入る)を賜う。廣元同じくこれを給う。左少将忠行これを伝うと。廣元状に載せ
  申して云く、鴾毛の御馬三疋、御移徙の後朝これを引き進すと。今夜御所に置かるる
  物、鈍色装束(裘代)・御塗籠の帖絹五百疋・繕綿二千両・紺小袖千領・御倉の八木
  千石・御厩の御馬二十疋。この外女房二品の局に献らるる物、白綾百疋・帖絹百疋・
  綿二千両・紺絹百疋なり。
 

12月25日 己亥 天陰 [玉葉]
  定長卿来たり談りて云く、法皇御不食、去る二十日より御増気有り。また御脚腫れ給
  う。御灸治痛み、御心地六借御うと。
 

12月26日 庚子
  去る二十二日子の刻、常陸の国鹿嶋社鳴動す。大地震の如し。聞く者耳を驚かす。こ
  れ兵革並びに大葬の兆したるの由、禰宜中臣廣親註し申す所なり。幕下御謹慎有り。
  則ち鹿嶋の六郎を以て神馬を奉らると。
 

12月29日 癸卯
  戸部(経房卿)並びに女房二品の局等の状到着す。法住寺殿の修理美を尽さるる事、
  賀し申さるる所なり。凡そ今年、京都に於いては件の造営、関東に於いてはまた鶴岡
  の遷宮・幕府の新造、これと云い彼と云い、民戸を費やさずして大功等を成さしめ給
  うの條、人感じ申さずと云うこと莫し。