1192年 (建久3年 壬子)
 
 

1月1日 甲戌
  卯の刻に幕下鶴岡宮に御参り。今日始めて八幡宮に於いて修正(七箇夜)を行わると。
  御神拝以後椀飯の儀有りと。
 

1月3日 丙子 陰、晩に及び小雨 [玉葉]
  申の刻に院に参る。召しに依って御前に参る。法皇御浴の間と。女房二品これに謁す。
  御悩の安否を問うに、答えて云く、窮冬両三日、天気快然なり。昨今頗る不快なり。
  就中、元日より御陰大いに腫れ、別に苦痛無きと雖も、起居礼拝等の間また苦痛無き
  に非ずと。
 

1月5日 戊寅
  御的始めなり。
    射手  下河邊の庄司行平     橘次公成
        野三左衛門の尉義成    愛甲の三郎季隆
        榛谷の四郎重朝      藤澤の次郎清近
 

1月8日 辛巳
  八幡宮の修正結願し、幕下御参り。
 

1月9日 壬午
  戌の[刻に]若宮の修正(一箇夜)これを遂げ行わる。
 

1月11日 甲申
  若公鶴岡に御参り。先々は御騎馬、今日は女房輿を用いらる。小山の五郎宗政御劔を
  持つ。
 

1月12日 乙酉 晴 [玉葉]
  この日法皇、伊勢に公卿勅使を発し遣わさるなり。勅使は左衛門の督通親卿、奉行は
  別当定長卿・判官代清長等なり。
 

1月19日 壬辰
  重源上人の使者参り訴えて云く、周防の国に於いて東大寺の柱を引くの間、大内の介
  弘成聊か違乱を成す所なり。糺し行わるべきか。てえれば、沙汰有って、使者に仰せ
  られて云く、偏に関東所堪の輩に非ず。早く奏聞せらるべしと。
 

1月20日 癸巳 晴 [玉葉]
  勅使通親今日帰参す。神宮彼に付けて無量の事を申すと。
 

1月21日 甲午
  新造の御堂の地に渡御す。犯土の間、土石を運ぶ疋夫等の中に左眼盲の男有り。幕下
  これを覧怪しまれ、彼は何国の誰人より進するやの由尋ね仰せらる。仍って景時これ
  を相尋ぬると雖も分明ならず。御前に召し寄せらる。佐貫の四郎大夫御旨を伺い、面
  縛するの処、懐中に一尺余りの打刀を帯す。殆ど寒氷の如し。またその盲を覧れば、
  魚鱗を以て眼の上を覆う。仍っていよいよ害心有る者と知ろし食すの間、これを推問
  せらる。名謁り申して云く、上総の五郎兵衛の尉なり。幕下を度り奉らんが為に数日
  鎌倉中を経廻すと。即ち義盛に下し賜り、同意の輩を召し尋ねらるべきの旨これを仰
  せ含めらる。
 

1月25日 戊戌
  巳の刻に前の幕下走湯山に御参詣。而るに当山住僧等臈次の事、去る文治四年にその
  式を定めらるると雖も、猶ややもすれば違越せしむの間、向後年戒を守るべきの由、
  重ねて定め下さるる所なり。