1192年 (建久3年 壬子)
 
 

2月3日 丙午 陰、夜に入り雨下る [玉葉]
  宗頼朝臣来たり申して云く、八幡別当法印成清、所帯の別当職を以て、弟子道清法眼
  に譲補す。成清は検校に転ずるべきの由言上す。早く請いに依って宣下すべきの由、
  院宣有りと(右大臣奉書)。早く宣下すべきの由これを仰す。
 

2月4日 丁未
  大夫の尉廣元使節として上洛す。これ去年窮冬の比より太上法皇御不豫にして、玉躰
  腫れしめ御うと。この御事に依ってなり。幕下頻りに御祈祷す。今度則ち廷尉に付け、
  秘蔵の御劔(鳩作)を石清水宮に奉らる。また神馬有り。この廷尉は去々年上洛し、
  去年また法住寺殿修理の行事として在京するなり。当職として賀茂の祭の供奉・重事
  連綿す。適々去る冬月迫に帰参するに、重ねての上洛不便の事たりと雖も、天下の大
  事たるに依って差し進すの旨直にこれを仰せらると。

[玉葉]
  余書札を以て法皇の動静を二品に問う。返報に云く、この五六日夜々辛苦す。事の外
  御増有りと。
 

2月5日 戊申
  故左典厩の御乳母(字は摩々の局)、相模の国早河庄より参上す。淳酒を相具し御前
  に献ず。年歯すでに九十二、旦暮を期し難きの間拝謁するの由これを申す。幕下故に
  以て憐愍せしめ給う。これ功有るが故なり。所望有らば何事と雖も達せしむべきの旨
  仰せ下さるるの間、早河庄の内の知行地課役を免除すべきの由、惣領に仰せらるべき
  の旨これを望み申す。仍って三町の新給を相加えらるるの上、申請の旨に任せ、則ち
  盛時を召し、土肥の彌太郎に下知すべきの趣これを仰せらるると。
 

2月6日 己酉
  去る月の三日に弥勒寺の金堂焼亡し、本尊の薬師像並びに日光菩薩、毘沙門天等灰燼
  と為すと。
 

2月12日 乙卯
  鶴岡宮の御神楽、幕下御参りと。
 

2月13日 丙辰
  鶴岡の別当法眼(圓暁、宮の法眼と号す)上洛せらる。園城寺三院入堂の為と。幕下
  丁寧の餞物を遣わさる。剰え長途の兵士として雑色八人を相副えらると。
 

2月14日 丁巳
  法印権の大僧都成清の書状参着す。今月二日石清水検校に補すと。法眼道清同じく権
  の別当に補すの由これを申す。
 

2月15日 戊午
  鶴岡の臨時の祭例の如し。
 

2月18日 辛酉 雨下る [玉葉]
  申の刻に還御するの後、丹二品法皇の御使いとして参上す。申さるる事等有り。(余、
  院の御気色に依って御前に候じ故に詔旨を承る。女房が示すに依ってなり)。白川の
  御堂等、蓮花王院、法華堂、鳥羽法住寺等、皆公家の御沙汰たるべし。自余散在の所
  領等は、宮に達し分け給う事等有り。聞こし食し及ぶに随って、面々に御沙汰有るべ
  しと。(その外、今日吉、今熊野、最勝光院、及び院領、神崎、豊原、會賀、福地等
  は皆公家の御沙汰たるべし。但し金剛勝院一所は殷富門院領たるべしと)。この御処
  分の體、誠に穏便なり。
 

2月22日 乙丑
  廣元朝臣の使者京都より参着す。去る十三日夜に入り入洛すと。法皇の御悩殆ど危急
  なり。仍って御劔を則ち石清水に送り奉るの由これを申す。
 

2月24日 丁卯
  武蔵の国六連の海辺に於いて、囚人上総の五郎兵衛の尉忠光を梟首す。義盛これを奉
  行す。日来漿水を断つと。推問するの間、申して云く、更に同類無し。但し越中の次
  郎兵衛の尉盛継去年の比丹波の国に隠居す。彼同じく会稽の志を存ずるか。当時に於
  いては在所を知り難し。曽って一所を定めずと。
 

2月28日 [豊前佐田文書]
**源頼朝下文写
    頼朝御判
  下 豊前国伊方庄住人
   地頭職補任の事
    前所衆中原信房
  右、前の地頭貞種貴賀嶋に渡らず。また奥州を追討するの時参会せず。この両度の過
  怠に依って彼の職を停止すべきなり。仍って信房を以て補任する所なり。限り有る課
  役に於いては、先例に任せ、その勤めを致すべきの状件の如し。以て下す。
    建久三年二月二十八日