1192年 (建久3年 壬子)
 
 

3月2日 甲戌
  廷尉廣元の書状京都より参着す。当職の事、すでに辞状を上げをはんぬ。その案文謹
  んで献上すと。この事太だ御意に相叶うと。彼の状に云く、
    正五位の下行左衛門の大尉中原朝臣廣元誠惶誠恐謹んで言す、殊に天恩を蒙り所
    帯する左衛門の大尉・検非違使職を罷めらるを請うる状、
   右廣元、去年四月一日に、明法博士・左衛門の大尉に任じ、即ち検非違使の宣旨を
   蒙る。三箇の恩一所に耐えず。これを以て同十一月五日先ず李曹の儒職を遁れ、な
   まじいに棘署の法官に居る。竊に累祖の立身を以て北闕の月に趨くと雖も、一族の
   伝跡、皆南堂の風を学ぶ。而るに校尉は王の爪牙なり。専ら輦轂の警衛たり。廷尉
   は民の銜勒なり。宜しく囹圄の手足を致すべし。爰に廣元性暗愚に受く。爭か薫豊
   両日の夢を弁えん。心明察に非ずして宛も紫雄三代の蓙を隔て、早く栄を非分の任
   に謝すに如かず。忠を方寸の誠に竭すのみ。望み請う天慈つまびらかに地慮を照ら
   し玉へ。然れば則ち内には瞰鬼の廻眸を避け、外には議人の聚口を弭ず、悚競の至
   りに慰し難し。廣元誠惶誠恐謹言。
     建久三年二月二十一日     正五位下行左衛門の大尉中原の廣元
 

3月3日 乙亥
  鶴岡の法会・舞楽例の如し。幕下御参り。若公扈従し給うと。
 

3月4日 丙子
  江次久家神楽の秘曲等を相伝せんが為に上洛す。仍って奉書を左近将監好節が許に遣
  わさる。平民部の丞盛時これを奉行す。
   江次久家上せ遣わす所なり。弓立星歌等を相伝せんが為に上洛するの旨これを申す。
   件の歌以下神楽の口伝故実、意に入れ能々教授せられ、来八月の放生会以前に、定
   めて関東に参向せられんか。その時久家を相具し下向せられてえり。鎌倉殿の仰せ
   の旨此の如し。仍って執達件の如し。
     三月四日           盛時(奉る)
 

3月13日 乙酉 晴 [玉葉]
  この日寅の刻に、太上法皇、六條西の洞院の宮に崩御(御年六十六)す。鳥羽院第四
  皇子、御母は待賢門院、二條、高倉両院の父、六條の先帝、当今三帝祖なり。保元以
  来四十余年天下を治む。(中略)未明に右大臣及び資實、事一定の由を告ぐ。即ち直
  衣冠を着し営参す。泰経卿を以て両女院に申し入る。資實を以て二品に触る。少時、
  右大臣出来し臨終の間の事を語る。善知識上人湛敬(本成房)、仁和寺の宮勝賢僧正
  これに候す。十念具足、臨終正念、面を西方に向け、手に定印を結び、決定往生更に
  疑わずと(後聞、西方を向き給わず、巽方を向くと、また頗る微笑す)。

[明月記]
  未明雑人云く、院すでに崩御す。或る説に云く、亥の刻ばかりに御気絶しをはんぬ。
  (中略)又云く、女房二品・少輔光遠・範綱等今暁出家すと。法王御臨終の儀更に違
  乱無し。夜前戌の刻ばかりに御佛に渡り奉らる。その後御念仏、遂に眠るが如く終わ
  らしめ御うと。(略)御入棺今夜なり。

[愚管抄]
  法皇は崩御ある。前の年より御病ありて少しよろしくならせ給などきこへながら、大
  腹水病と云御悩にて、御閉眼の前日まで御足などはすくみながら、長日護摩御退転な
  くをこなはせてをはしましけり。
 

3月15日 丁亥 陰、雨下る [玉葉]
  この日後白河院の御葬送なり。重日たりと雖も、遺詔(第三日に行うべきの由仰せ置
  かる)に依って行わるる所なり。その儀、待賢門院・建春門院等の例と。廂御車(車
  に二人副ゆ)、炬火六人、北面の下臈(大夫の尉公朝、定康、造酒の正尚家、前の大
  和の守親国、検非違使章清、俊兼)、焼香四人、同北面の下臈(左衛門の尉籐の能兼、
  同實重、平の基保、皆左衛門の尉なり)、素服の人、右大臣以下御車の後に歩行す。
  他の人供奉せず。仁和寺の宮以下、一町ばかりその後に扈従す。前陣閉路より参らる。
  これ路頭の狼藉を停めんが為なり。すでに御遺言と。御棺を御車に舁ぎ入る役人(中
  将親能、基範、少将教成、忠行、資明法師、範綱法師、能盛法師、業忠、範清等)。
 

3月16日 戊子
  未の刻に京都の飛脚参着す。去る十三日の寅の刻、太上法皇六條殿に於いて崩御す。
  御不豫は大腹水と。大原の本成房上人を召し、御善知識と為す。高声に御念佛七十反、
  御手に印契を結び、臨終の正念、居ながら睡るが如く遷化し玉うと。宝算を計るに六
  十七、すでに半百を過ぎたり。御治世四十年と謂うは、殆ど上古に超ゆ。白河法皇の
  外此の如きの君は御坐しまさず。幕下御悲歎の至りに丹府肝胆を砕く。これ則ち合体
  の儀を忝して、君臣の礼を重んぜらるるに依ってなりと。
 

3月19日 辛卯
  法皇初七日の御忌景を迎えて、幕府に於いて御佛事を修せらる。義慶房阿闍梨御導師
  たり。請僧七口なり。幕下七々日毎に御潔斎し玉い、御念誦等有りと。
 

3月20日 壬辰
  山ノ内に於いて百箇日の温室有り。往反の諸人並びに土民等浴すべきの由、札を路頭
  に立てらる。これまた法皇の御追福の為なり。俊兼これを奉行す。今日御分なり。平
  民部の丞・堀の籐次等これを沙汰す。百人を以て結番せらる。雑色十人この内に在り
  と。
 

3月23日 乙未
  幕下岩殿観音堂に御参り。三浦の介・同左衛門の尉以下御共に候ず。大多和の三郎椀
  飯を献ると。
 

3月26日 戊戌
  第二七日の御佛事これを修せらる。導師は安楽房。彼の崩御の事、今日具に関東に披
  露すと。遷化の刻に女房三位の局落餝す。戒師は本成房なり。若狭の守範綱・主税の
  頭光遠御閉眼の後出家す。御後の事は、民部卿経房・右中弁棟範朝臣(別当)・右少
  弁資實(判官代)これを奉行す。崩御の当日亥の刻に御入棺。澄憲僧正・静賢法印役
  人たり。中将基範(成範卿の男)・中将親能・少将教成(二品の局の息)・少将忠行
  ・右馬の頭資時入道(故資賢大納言の子)・大膳大夫業忠・範綱入道(若州)・能成
  入道(周防の守)等またこの役に従う。同十五日法住寺法華堂に葬り奉る。重日たり
  と雖も遺令に依ってなり。凡そ此の如きの諸事、御存日に定め置かると。