1192年 (建久3年 壬子)
 
 

4月2日 癸卯
  申の刻に御台所御着帯。御加持は安楽房阿闍梨、御験者は題学房なり。武蔵の守義信
  が妻御帯を持参す。幕下これを結び奉らしめ給いをはんぬ。今日以後、毎月御産平安
  の御祈祷を抽んづるべきの由、鶴岡の供僧に仰せらる。

[玉葉]
  この日、倚廬還御の日なり。また解陣・開関等の事有り。
 

4月4日 乙巳
  三七日の御佛事なり。導師は恵眼房[阿闍梨]。今日より幕下毎日一巻の法華経を読
  誦せしむべしと。これ日来御日所作の外なりと。
 

4月5日 丙午
  千手経三千巻、今月中に転読すべきの由、相模の国の寺々に仰せ下さると。


4月11日 壬子
  若公(七歳、御母は常陸入道の妹)乳母の事、今日野三刑部の丞成綱・法橋昌寛・大
  和の守重弘等に仰せらる。而るに面々固辞するの間、長門の江太景国に仰せられをは
  んぬ。仍って来月潛かに相具し奉り上洛すべきの由定めらるると。他人の辞退するは、
  御台所の御嫉妬甚だしきの間、彼の御気色を怖畏するが故なりと。この景国は鎮守府
  将軍利仁の四世、修理の少進景通(伊豫の守源の頼義朝臣、貞任等を攻むるの時の七
  騎の武者の随一なり)三代の孫なり。父景遠は大學の頭大江の通国の猶子として、藤
  氏を大江に改むると。

**景通[陸奥話記]
  (前略)将軍の従兵或いは以て散走し、或いは以て死傷す。残る所纔かに六騎有り。
  長男義家、修理の少輔藤原の景通、大宅の光任、清原の貞廣、藤原の範季、同則明等
  なり。賊衆二百余騎、左右に翼を張り圍み攻むる。飛ぶ矢雨の如し。将軍の馬流れ矢
  に中たり薨る。景通馬を得てこれを援く。義家の馬また矢に中たって死す。則明賊の
  馬を奪いこれを援く。此の如きの間殆ど脱れ得難し。而るに義家頻りに魁師を射殺す。
  また光任等数騎殊に死して戦う。賊類行かんとして漸く引き退く。(後略)
 

4月25日 天晴 [明月記]
  人々云く、隆保(讃岐)関東より上洛す(去る月の二十日の比下向す)。彼の便を以
  て示し送る事等有り。今日左武衛参入し、御書を以て殿下に申される事等有り。また
  御佛事有り。夜に入って布施を取る。
 

4月28日 己巳
  法皇三十五日の御佛事なり。恵眼房阿闍梨御導師たり。布施は綾の被物二重、御馬一
  疋(鞍を置く)と。また来四十九日の御佛事は百僧供たるべし。仍って鎌倉中並びに
  武蔵・相模・伊豆の宗たるの寺社の供僧等、その請いに従うべきの由御書を下さる。
  行政・仲業等これを奉行す。また京都に於いて御追善を修せらるべきの旨、兼日にそ
  の沙汰有りと。
 

4月29日 庚午
  大流星飛行すと。天文の示す所、吉凶定め難きものか。
 

4月30日 辛未
  丑の刻に若宮の職掌紀の籐大夫が宅焼亡す。他所に移らず。諸人走り集まるの処、家
  主云く、これ失火、放火等の疑いに非ず。偏に天火の由を存ずと。