1192年 (建久3年 壬子)
 
 

5月1日 壬申
  鶴岡宮の備供祭、巫女・職掌等群参す。而るに紀の籐大夫俄に以て狂乱し、詞を吐い
  て云く、小壺の楠の前(町末の辺に在る女と)を見て、日来艶言を通わすの処、神鏡
  を鋳奉り家中に安じ、近日に鶴岡宮に持参せんと欲するの由これを称す。許容せざる
  の間、去る二十九日の夜、彼の家を焼かしめんと欲すと雖も、指し合いに依って黙止
  しをはんぬ。去る夜松明を取り出で行くの時、彼女の宅の由を思い自宅を焼くと。則
  ち義慶房・題学房これを加持すと。

[玉葉]
  今日頼朝卿佛事を修す。施物の躰、尤も然るべきの由人感心すと。

[明月記]
  前の右大将御佛事と。伝聞、導師は公顕僧正、布施被物二十(白唐綾・平絹張単衣)、
  例布施一・錦一枝(横被か)・綾三十疋(六匂綾一縣子)・絹三百疋(廿結下裹)・白
  布百段(十結)・紺布(同上)・藍摺(同上)。請僧は鈍色被物五重・平綾、例布施絹
  百疋・白布百段・藍摺百段。導師はショウ牙三百、請僧は百と。参入の公卿、實家・
  定能・通親・親信・経房・泰通・親宗・隆房・兼光・能保・雅長・實教・光雅・定長
  ・成経・泰経・顕信・季能・季経・経家・公衡・定輔卿・殿上人、出仕四十余人を見
  ると(或る人云く、今日出仕の人交名有り。関東に送るべしと。賢者奔営す)。
 

5月2日 癸酉 晴、時々雨降る [玉葉]
  夜に入り大夫の尉廣元参入す。左衛門の督参るべきの由を仰すに依ってなりと。余全
  く召さざるなり。然れども関東に仰せ遣わすべき事等、武衛を以て仰せ伝う(思う所
  有るに依ってなり)べし。下向の使いたるの由これを仰す。明日首途すべしと。密々
  に申して云く、今度一向に此の如き事中に入るべからざるの由将軍の誡めなり。上洛
  の後、また書札を以て重ねて以て厳密の命等有り。身の為に仰せ遣わさるる事等を告
  げえず。この事に依って、もし不快の事有らば太だ不便すべしと。勿論の事の計らい
  なり。廣元将軍を思い飽かるるか。これ廷尉の事に依ってなり。然るべし々々。今日
  の御法事、七僧六十僧と。
 

5月3日 甲申 晴 [玉葉]
  能保卿の許に人を遣わす。廣元が申し状此の如し。然れば他人を以て祇候せらるべき
  か。将又ただ力者を以て遣わすべきか。相計らうべきの由仰せ遣わすの処に、親能今
  両三日の間に下向すべきか。然れども漢字の読めざるの人なり。仰せに随い力者を遣
  わすべきか。
 

5月8日 己卯
  法皇四十九日の御佛事、南御堂に於いてこれを修せらる。百僧供有り。早旦各々群集
  す。布施は口別に白布三段・袋米一なり。主計の允行政・前の右京の進仲業これを奉
  行すと。僧衆は鶴岡二十口・勝長壽院十三口・伊豆山十八口・箱根山十八口・大山寺
  三口・観音寺三口・高麗寺三口・六所の宮二口・岩殿寺二口・大倉観音堂一口・窟堂
  一口・慈光寺十口・浅草寺三口・眞慈悲寺三口・弓削寺二口・国分寺三口なり。
 

5月12日 癸未
  幕下神馬二疋を鶴岡の上下の宮に奉らしめ給う。これ紀の籐大夫が所為を聞こし食し
  及ぶの間、神威厳重、今更に御崇重有るに依って此の如しと。
 

5月19日 庚寅
  若公上洛せしめ給う。これ仁和寺の隆暁法眼の弟子として入室せんが為なり。長門の
  江太景国並びに江内能範・土屋の弥三郎・大野の籐八・由井の七郎等扈従す。雑色国
  守・御厩舎人宗重等これを差し進せらる。常陸の平四郎が由井の宅より進発し給う。
  去る夜幕下潛かにその所に渡御し、御劔を奉り給うと。
 

5月26日 丁酉
  多賀の二郎重行所領を収公せらる。これ今日、江間殿の息童金剛殿歩行して興遊せし
  め給うの処、重行乗馬せしめながらその前を打ち過ぎをはんぬ。幕下これを聞こし食
  され、礼は老少を論ずべからず、且つまたその仁に依るべき事か。就中金剛が如きは、
  汝等が傍輩に准うべからざる事なり。爭か後聞を憚からざるやの由直に仰せ含めらる。
  重行怖畏しながら、全く然らず、且つは若公と扈従の人とに尋ね下さるべきの由陳謝
  す。仍ってこれを尋ね仰せらる。若公然る如き事無きの旨申し給う。奈古谷の橘次、
  また重行慥に下馬するの由これを申す所なり。時に殊に御気色有り。後の糺明を恐れ
  ず、忽ち謀言を構え、一旦科を贖わんと欲するの條、心中と云い所為と云い、太だ奇
  怪の趣仰せ数回に及ぶと。次いで若公幼稚の意端に仁恵を挿み、優美なるの由御感有
  り。御劔を金剛公に献ぜらる。これ年来御所持の物と。彼の御劔は、承久兵乱の時、
  宇治合戦の時これを帯し給うと。