1192年 (建久3年 壬子)
 
 

6月3日 癸卯
  恩沢の沙汰有り。或いは新恩を加えられ、或いは以前の御下文を成し改めらる。その
  中に文武の抽賞有り。所謂前の右京の進仲業右筆を勤むるの処、未だ賞に預からざる
  の間、今日始めてこれを拝領す。藤田の小三郎能国弓馬の芸を継ぐが故に、父の勲功
  の賞の跡を以て、永く業を伝来すべきの由と。

[正閏史料外編一]
**前の右大将家政所下文
  前の右大将家政所下す 周防の国大島三箇庄並びに公領住人
    早く前の因幡の守中原朝臣廣元地頭職たるべき事
  右、去る文治二年十月八日の御下文に云く、件の島は平氏知盛卿謀反の時、城郭を構
  え居住する所なり。その間住人字屋代源三・小田三郎等同意せしめ、始終彼の城を結
  構せしめをはんぬ。所行の旨旁々奇怪なり。早く廣元を以て地頭職と為し、先例に任
  せ、本家の所役に勤仕せしむべきてえり。而して今政所下文を成すべきの旨、仰せに
  依って改むる所件の如し。
    建久三年六月三日   案主藤井判
  令民部少丞藤原判     知家事中原
  別当前の因幡の守中原朝臣判
  前の下総の守源朝臣
  散位中原朝臣
 

6月13日 癸丑
  幕下新造の御堂の地に渡御す。畠山の次郎・佐貫の四郎大夫・城の四郎・工藤の小次
  郎・下河邊の四郎等梁棟を引く。その力すでに力士数十人の如し。筋力を盡すべき事
  等各々一時に成功し、観る者目を驚かす。幕下感じ給う。凡そ犯土と云い営作と云い、
  江間殿已下手づからこれを沙汰す。爰に土を夏毛の行騰に納れて運ぶの者有り。その
  名を尋ねらるるの処、景時申して云く、囚人皆河の権六太郎なりと。その功に感じ、
  忽ち厚免を蒙る。これ木曽の典厩専一の者なり。典厩誅せらるるの後、囚人として梶
  原に召し預けらると。
 

6月18日 戊午
  鶴岡の別当法眼京都より下着せらる。直ぐに幕下に参り謁し申さる。法皇崩御の後事
  をほぼ語り申す。去る四月二日に主上本殿(三月十五日御倚廬)に還御し、解陣・開
  関の事を行わる。二十日の賀茂の祭、諒闇に依ってこれを停止すと。
 

6月21日 庚申
  美濃の国の御家人等、守護相模の守惟義が下知に従うべきの由仰せ下さると。これ洛
  中の群盗等を鎮められんが為なり。
   前の右大将家政所下す 美濃の国の家人等
     早く相模の守惟義が催促に従うべき事
   右当国内の庄の地頭中、家人の儀を存ずる輩に於いては、惟義が催しに従い勤節を
   致すべきなり。就中近日洛中強賊の犯その聞こえ有り。彼の党類を禁遏せんが為、
   各々上洛を企て大番役に勤仕すべし。而るにその中に家人たるべからずの由存ずる
   者は、早く子細を申すべし。但し公領に於いては催しに加うべからず。兼ねて又重
   隆・佐渡の前司の郎従等を催し召し、その役を勤めしむべし。隠居の輩に於いては、
   交名を注進すべきの状、仰せの所件の如し。
     建久三年六月二十日      案主籐井
    令民部少丞藤原         知家事中原
    別当前の因幡の守中原
     前の下総の守源朝臣
     散位中原朝臣
 

6月28日 戊辰
  由井の七郎京都より参着す。去る十六日、若公弥勒寺の法印隆暁の仁和寺の坊に渡御
  す。一條殿(能保卿)これを具し奉らる。彼の坊に於いて御贈物有り。参河の律師隆
  邊これを取ると。