1192年 (建久3年 壬子)
 

7月3日 癸酉
  今暁より御台所聊か御不例。諸人走り参る。若宮の別当法眼護身に候ぜらると。
 

7月4日 甲戌
  御産の間の御調度等を今日御産所に調進す。三浦の介・千葉の介等、義村・常秀を差
  しこれを奉行せしむ。また鳴弦の役人等を定めらる。梶原源太左衛門の尉景季これを
  奉行すと。
 

7月8日 戊寅
  御台所御不例の事、すでに復本せしめ給う。これただ御懐孕の故の由、医師三條左近
  将監これを申すと。
 

7月18日 戊子 天晴、風静まる
  御台所名越の御館(濱の御所と号す)に渡御す。御産所に点ぜらるるなりと。
 

7月20日 庚寅
  大理の飛脚参着す。去る十二日に征夷大将軍に任じ給う。その除書、勅使を差し進せ
  られんと欲するの由申し送らるると。
 

7月23日 癸巳
  御台所の御願として、鶴岡宮の供僧二十五口に、口別に龍蹄一疋並びに桑絲一疋、越
  布一端を施さる。民部の丞これを奉行すと。
 

7月24日 甲午
  幕下名越殿に渡御す。三浦の介経営を儲けしむと。


7月26日 丙申
  勅使廰官肥後の介中原景良・同康定等参着す。征夷大将軍の除書を持参する所なり。
  両人(各々衣冠を着す)例に任せ鶴岡の廟庭に列び立ち、使者を以て除書を進すべき
  の由これを申す。三浦の義澄を遣わさる。義澄、比企左衛門の尉能員・和田の三郎宗
  實並びに郎従十人(各々甲冑)を相具し、宮寺に詣で彼の状を請け取る。景良等名字
  を問うの処に、介の除書未だ到らざるの間、三浦の次郎の由名謁りをはんぬ。則ち帰
  参す。幕下(御束帯)予め西廊に出御す。義澄除書を捧持し、膝行してこれを進す。
  千万人の中に義澄この役に応ず。面目絶妙なり。亡父義明命を将軍に献りをはんぬ。
  その勲功髭を剪ると雖も没後に酬い難し。仍って子葉を抽賞せらる。
  除書に云く、
    左少史三善仲康           内舎人橘の實俊
    中宮権の少進平の知家        宮内少丞藤原の定頼
    大膳の進源の兼光          大和の守大中臣宣長
    河内の守小槻廣房(左大史の任を辞す)尾張の守藤原忠明(元伯耆の守)
    遠江の守藤原朝房(元陸奥)     近江の守平の棟範
    陸奥の守源の師信          伯耆の守藤原宗信(元遠江)
    加賀の守源の雅家          若狭の守藤原保家(元安房)
    石見の守藤原経成          長門の守藤原信定
    対馬の守源の高行          左近将監源の俊實
    左衛門の少志惟宗景弘        右馬の允宮道式俊
      建久三年七月十二日
   征夷使
     大将軍源の頼朝
   従五位下源の信友
  左衛門の督(通親)参陣、参議兼忠卿これを書く。将軍の事、本より御意に懸けらる
  ると雖も、今にこれを達せしめ給わず。而るに法皇崩御の後、朝政の初度に、殊に沙
  汰有って任ぜらるるの間、故に以て勅使に及ぶと。また知家が沙汰として、武蔵の守
  の亭を点じ、勅使を招き経営すと。

[愚管抄]
  殿下(兼實)、鎌倉の将軍(頼朝)、仰せ合わせつつ、世の御政はありけり。
 

7月27日 丁酉
  将軍家両勅使を幕府に招請せしめ給う。寝殿の南面に於いて御対面。献盃有り。加賀
  の守俊澄・大和の守重弘・小山の七郎朝光等所役に従う。前の少将・参河の守・相模
  の守・伊豆の守等その座に候ず。退出の期に及んで各々鞍馬(葦毛、鹿毛)を給う。
  左衛門の尉祐経・朝重等これを引く。両客庭上に降りてこれを請け取り、一拝の後退
  出すと。
 

7月28日 戊戌
  北條殿の御沙汰として、椀飯を勅使に送らしめ給う。また小山左衛門の尉・千葉の介
  ・畠山の次郎以下、彼の贈物を調進す。善信・俊兼等奉行としてこれを召し聚む。
 

7月29日 己亥
  景良・康定帰洛す。まず将軍家より馬十三疋・桑絲百十疋・越布千端・紺藍摺布百端、
  これを餞送せしめ給うと。朝光使節たり。