1192年 (建久3年 壬子)
 
 

8月5日 乙巳
  将軍に補せしめ給うの後、今日政所始め。則ち渡御す。
   家司
    別当  前の因幡の守中原朝臣廣元、前の下総の守源朝臣邦業
    令   民部少丞藤原朝臣行政
    案主  藤井俊長
    知家事 中原光家
  大夫屬入道善信・筑後権の守俊兼・民部の丞盛時・籐の判官代邦通・前の隼人の佐康
  時・前の豊前の介實俊、前の右京の進仲業等その座に候ず。千葉の介常胤先ず御下文
  を給わる。而して御上階以前は、御判を下文に載せられをはんぬ。政所を始め置かる
  るの後は、これを召し返され、政所下文を成さるるの処、常胤頗る確執す。政所下文
  と謂うは家司等の署名なり。後鑒に備え難し。常胤が分に於いては、別に御判を副え
  置かられば、子孫万代亀鏡と為すべきの由これを申請す。仍って所望の如しと。
       御判を載せらる
   下す 下総の国住人常胤
     早く相伝の所領、新給所々の地頭職を領掌すべき事
   右去る治承の比、平家擾世せば、王化を忽緒し、剰え逆節を図る。爰に件の賊徒を
   追討せんと欲し籌策を運すの処、常胤朝威を仰ぎ奉り、最前に参向するの後、合戦
   の功績と云い、奉公の忠節と云い、傍輩に勝り勤厚を致す。仍って相伝の所領、ま
   た軍賞に依って充て給わる所々等の地頭職、政所下文を成し給わる所なり。その状
   に任せ、子孫に至るまで相違有るべからずの状件の如し。
     建久三年八月五日


8月9日 己酉 天晴、風静まる
  早旦以後に御台所御産の気あり。御加持は宮の法眼、験者は義慶房・大学房等。鶴岡、
  相模の国の神社・仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。所謂、
    福田寺(酒匂)    平等寺(豊田)    範隆寺(平塚)
    宗元寺(三浦)    常蘇寺(城所)    王福寺(坂下)
    新楽寺(小磯)    高麗寺(大磯)    国分寺(一宮下)
    弥勒寺(波多野)   五大寺(八幡、大會の御堂と号す) 寺務寺
    観音寺(金目)    大山寺        霊山寺(日向)
    大箱根        惣社(柳田)     一の宮(佐河大明神)
    二の宮(河匂大明神) 三の宮(冠大明神)  四の宮(前祖大明神)
    八幡宮        天満宮        五頭宮
    黒部宮(平塚)    賀茂(柳下)     新日吉(柳田)
  先ず鶴岡に神馬二疋(上下)、千葉の平次兵衛の尉・三浦の太郎等これを相具す。そ
  の外の寺社は在所の地頭これを請け取る。景季・義村等奉行たり。巳の刻に男子御産
  なり。鳴弦は平山右衛門の尉季重・上野の九郎光範なり。和田左衛門の尉義盛引目役
  に候ず。小時、江間の四郎殿・三浦の介義澄・佐原の十郎左衛門の尉義連・野三刑部
  の丞成綱・籐九郎盛長・下妻の四郎弘幹(悪権の守と号す)、以上六人御護り刀を献
  ず。また因幡の前司・小山左衛門の尉・千葉の介以下の御家人、御馬・御劔等を献ず。
  御加持・験者等これを給わる。八田兵衛の尉朝重・野三左衛門の尉義成・左近将監能
  直御馬を引く。加賀の守俊隆別禄(衣)を取る。次いで阿野上総の妻室(阿波の局)
  御乳付けとして参上す。女房大貳の局・上野の局・下総の局等御介錯たるべきなり。
  次いで御名字定め有り。千萬君と。
 

8月10日 庚戌
  若君二夜の事は武蔵の守・三浦の介沙汰すと。
 

8月11日 辛亥
  三夜の事は信濃の守・籐九郎盛長沙汰すと。
 

8月12日 壬子
  四夜の事は千葉の介常胤これを沙汰すと。
 

8月13日 癸丑
  五夜の事は下河邊の庄司行平沙汰すと。
 

8月14日 甲寅
  鶴岡の廻廊外庭に於いて、放生会の相撲の内の取り手を召し決せらると。籐の判官代
  奉行たりと。
    一番 奈良の籐次    荒次郎
    二番 鶴次郎      藤塚目
    三番 犬武の五郎    白河の黒法師
    四番 佐賀良の江六   兼仗太郎
    五番 所司の三郎    小熊の紀太
    六番 鬼王       荒瀬の五郎
    七番 紀六       王鶴
    八番 小中太      千手王
  今夜若君六夜の事なり。因幡の前司沙汰すと。
 

8月15日 乙卯
  鶴岡放生会の舞楽なり。将軍家御出で無し。上総の介義兼奉幣の御使いとして廻廊に
  着し、舞楽等の経営有り。
    舞童
    左は 金王  瀧楠  彌陀王  伊豆熊
    右は 夜叉  観音  亀菊   良壽
  今夜若公七夜の事、小山左衛門の尉これを沙汰す。将軍家並びに若公御方に皆御馬・
  御劔等を献る。御台所御方に綾二十段・生衣三領、女房中に長絹百疋を進すと。
 

8月16日 丙辰
  流鏑馬已下例の如し。
 

8月20日 庚申
  将軍家御産所に渡御す。父母兼備の射手等を召し草鹿の勝負有り。
   一番 梶原左衛門の尉   比企の彌四郎
   二番 三浦兵衛の尉    同太郎
   三番 千葉兵衛の尉    梶原兵衛の尉(刑部の丞の子)
 

8月22日 壬戌
  雑色成里は多年の功有り。仍って御気色快然たり。頗る御家人と勝劣無し。而るに去
  る夏比他界す。殊に御歎息。その子孫を尋ねらるるの処、彼の子息成澤この事を伝え
  聞き、越中の国より参上す。今日始めて謁し奉る。直に憐愍の仰せを蒙る。

[下野茂木文書]
**将軍家政所下文
  将軍家政所下 下野の国茂木郡住人
   補任 地頭職の事
    前の右衛門の尉藤原友家
  右、治承四年十一月二十七日の御下文に云く、件の人を以て彼の職に補任するてえり。
  今仰せに依って政所下文を成し賜るの状件の如し。以て下す。
    建久三年八月二十二日      案主藤井(花押)
  令民部の丞藤原(花押)       知家事中原(花押)
  別当前の因幡の守中原朝臣(花押)
    前の下総の守源朝臣
 

8月24日 甲子
  二階堂の地に始めて池を掘らる。地形本より水木相応の所なり。近国の御家人に仰せ
  て各々三人の疋夫を召すと。将軍家監臨し給う。御帰りの時に及び行政が家に入御す。
  義澄已下宿老の類一種一瓶を持参すと。
 

8月27日 丁卯
  将軍家二階堂に渡御す。阿波の阿闍梨静空の弟子僧静玄を召し、堂前池の立石の事を
  仰せ合わさるると。厳石数十果、所々よりこれを召し寄せらる。積んで高き岡と成す
  と。