1192年 (建久3年 壬子)
 
 

9月4日 癸酉
  鶴岡上宮の西壇所に於いて、長日聖観音供養法並びに法華講讃を始行せらる。供僧等
  これを奉仕すと。
 

9月5日 甲戌
  右馬権の頭公佐朝臣書状を献る。去る月二十日、人の讒口に依って除籍せらる。身に
  於いてその科無し。一行を賜り愁え申さんと欲すと。仰せに云く、讒者と雖も、一向
  虚言を以ては天聴に達すべからず。内々懈緩の事有るの條、異儀無からんか。親昵を
  以て輙く執り申すこと能わずの由と。
 

9月11日 庚辰
  静玄堂前池に石を立つ。将軍家昨日より行政が家に御逗留。この事を覧玉わんが為な
  り。汀野の埋め石・金沼・汀野の筋・鴉會石・嶋等石、悉く以て今日これを立て終わ
  る。玉沼石並びに形石等は一丈ばかりなり。静玄が訓を以て、畠山の次郎重忠一人こ
  れを捧げ持ち、池の中心に渡り行きこれを立て置く。観る者その力を感ぜずと云うこ
  と莫し。
 

9月12日 辛巳
  小山の左衛門の尉朝政、先年の勲功に募り恩沢を給う。常陸の国村田下庄なり。而るに
  今日政所の御下文を賜る。その状に云く、
   将軍家政所下す 常陸の国村田下庄(下妻宮等)の地頭職に補任する事
     左衛門の尉藤原の朝政
   右去る壽永二年、三郎先生義廣謀叛を発し闘乱を企つ。爰に朝政偏に朝威を仰ぎ、
   独り相禦がんと欲す。即ち官軍を待ち具して、同年二月二十三日、下野の国野木宮
   の辺に於いて合戦するの刻、抽んで以て軍功を致しをはんぬ。仍って彼の時地頭職
   に補任する所なり。庄官宜しく承知すべし。遺失すべからず状、仰せの所件の如し。
   以て下す。
     建久三年九月十二日      案主藤井
     令民部の少丞藤原       知家事中原
     別当前の因幡の守中原朝臣
       下総の守源朝臣
 

9月17日 丙戌
  来月一條の黄門熊野山に参らるべきに依って、白布五十端を調献すべきの由、佐々木
  中務の丞経高に仰せ遣わさる。この上龍蹄二疋を送らる。今暁、雑色鶴次郎と御厩舎
  人仲太これを相具し上洛すと。
 

9月25日 甲午
  幕府の官女(姫の前と号す)今夜始めて江間殿の御亭に渡る。これ比企の籐内朝宗が
  息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なりと。而るに江
  間殿、この一両年色に耽るの志を以て、頻りに消息せらるると雖も、敢えて容用無き
  の処、将軍家これを聞こし食され、離別を致すべからざるの旨起請文を取り行き向か
  うべきの由、件の女房に仰せらるるの間、その状を乞い取るの後、嫁娶の儀を定むる
  と。