1192年 (建久3年 壬子)
 
 

11月2日 辛未
  御堂供養来月これを遂げ行わるべし。導師下向の間の雑事以下、行政・盛時等奉行た
  り。今日沙汰有って、海道駅家の事、国々に奉行を差し定めらる。足柄山越えの兵士
  は、沼田の太郎・波多野の五郎・河村の三郎・豊田の太郎・工藤の介等沙汰すべきの
  由仰せ含めらると。
 

11月5日 甲戌
  卯の刻、新誕の若公の御行始めなり。籐九郎盛長が甘縄の家に入御す。御輿を用いら
  る。女房大貳の局・阿波の局等これを扶持し奉る。供奉人は相模の次郎・信濃の三郎
  ・小山の三郎・三浦兵衛の尉・梶原源太左衛門の尉・下河邊の四郎・佐々木の三郎等
  なり。終日御坐す。供奉人等の中に献盃有り。盛長御劔を献る。また御共の男女に同
  じく贈物有り。女房二人に各々小袖一領、相模の次郎以下は各々色革一枚なり。亥の
  刻に還御す。
 

11月13日 壬午
  二階堂の池の奇石の事、猶御気色に背く事等相交わるの間、静玄を召し重ねてこれを
  直せさる。畠山の次郎・佐貫の大夫・大井の次郎厳石を運ぶ。凡そ三輩の勤め、すで
  に百人の功に同ず。御感再三に及ぶと。
 

11月15日 甲申
  貢馬五疋上洛す。御厩舎人家重これを相具すと。
 

11月20日 己丑
  永福寺の営作すでにその功を終う。雲軒月殿絶妙比類無し。誠にこれ西土九品の荘厳
  を以て、東関に二階の梵宇に遷すものか。今日御台所御参り有り。
 

11月21日 庚寅 晴 [玉葉]
  伝聞、前の大僧正公顕、前の大将堂供養の導師として去る比関東に向かう。而るに前
  途を遂げず、路頭に於いて頓滅すと。生年八十四。遠路に赴き、途中に於いての頓滅
  悲しむべし。後鑒の及ぶ所、偏にこれ追従貧欲の微に似たり。門弟等制止を加えざる
  の條、愚かの至りなり。但し実否未だ聞かず。
 

11月22日 辛卯
  鶴岡宮に於いて御神楽有り。これ御堂供養に魔の障り有るべからざるの由の御祈祷な
  り。相模の守御奉幣の御使いたるなり。
 

11月25日 甲午 白雲飛散す、午以後霽に属す
  早旦熊谷次郎直實と久下権の守直光と、御前に於いて一決を遂ぐ。これ武蔵の国熊谷
  ・久下の境相論の事なり。直實武勇に於いては一人当千の名を施すと雖も、対決に至
  っては再往知十の才に足らず。頗る御不審を貽すに依って、将軍家度々尋ね問わしめ
  給う事有り。時に直實申して云く、この事梶原平三景時が直光を引級するの間、兼日
  に道理を申し入るの由か。仍って今直實頻りに下問に預かるものなり。御成敗の処、
  直光定めて眉を開くべし。その上は理運の文書要無し。左右に能わずと称し、縡未だ
  終えざるに、調度を巻き文書等を御壺中に投げ入れ座を起ち、猶忿怒に堪えず。西侍
  に於いて自ら刀を取り髻を除く。詞を吐いて云く、殿の御侍へ登りはてと。則ち南門
  を走り出で、私宅に帰るに及ばず逐電す。将軍家殊に驚かしめ給う。或る説に、西を
  指し駕を馳す。若しくは京都の方に赴かんかと。則ち雑色等を馳せ遣わし、相模・伊
  豆の所々並びに箱根・走湯山等に於いて、直實が前途を遮って、遁世の儀を止むべき
  の由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣わさると。直光は直實が姨母の夫なり。その好
  に就いて、直實先年直光が代官として、京都の大番に勤仕せしむるの時、武蔵の国の
  傍輩等同役を勤め在洛す。この間各々人々代官を以て、直實に対し無礼を現す。直實
  その鬱憤を散ぜんが為、新中納言知盛卿に属き多年を送りをはんぬ。白地に関東に下
  向するの折節、石橋合戦有り。平家の方人として源家を射ると雖も、その後また源家
  に仕え、度々戦場に於いて勲功に抽んづると。而るに直光を棄て新黄門の家人に列な
  るの條、宿意の基として日来境の違乱に及ぶと。

  今日永福寺の供養なり。曼陀羅供有り。導師は法務大僧正公顕と。前の因幡の守廣元
  行事たり。導師・請僧の施物等は勝長壽院供養の儀に同じ。布施取り十人を採用せら
  る。また導師の加布施銀劔は、前の少将時家これを取る。将軍家御出でと。
  先陣の随兵
    伊澤の五郎信光          信濃の三郎光行
    小山田の三郎重成         渋谷の次郎高重
    三浦左衛門の尉義連        土肥の彌太郎遠平
    小山左衛門の尉朝政        千葉の新介胤正
  将軍家
    小山の七郎朝光御劔を持つ
    佐々木三郎盛綱御甲を着す
    勅使河原の三郎有直御調度を懸く
  御後の供奉人(各々布衣)
    武蔵の守義信           参河の守頼範
    遠江の守義定           上総の介義兼
    相模の守惟義           信濃の守遠光
    越後の守義資           豊後の守季光
    伊豆の守義範           加賀の守俊隆
    兵衛判官代義資          村上判官代義国
    籐判官代邦通           源判官代高重
    修理の亮義盛           新田蔵人義兼
    奈胡蔵人義行           佐貫の大夫廣綱
    所の雑色基繁           橘右馬大夫公長
    千葉の大夫胤頼          野三左衛門の尉義成
    八田左衛門の尉知家        足立左衛門の尉遠元
    比企左衛門の尉能員        梶原刑部の丞朝景
    梶原兵衛の尉景茂(童時景定の子) 左衛門の尉景季
    後藤兵衛の尉基清         景定(朝景の男)
    畠山の次郎重忠          土屋の三郎宗遠
    工藤の庄司景光          加藤次景廉
    梶原平三景時           因幡の前司廣元
  後陣の随兵
    下河邊の庄司行平         和田左衛門の尉義盛
    小山田の四郎重朝         葛西兵衛の尉清重
    工藤左衛門の尉祐経        野三刑部の丞成綱
    小山の五郎宗政          佐々木の五郎義清
 

11月28日 丁酉 [玉葉]
  午の刻、先日関東に遣わすの返札到来す。天台座主の事なり。状に云く、此の如き事
  子細を下知し、ただ左右の御定め在るべしと。
 

11月29日 戊戌
  新誕の若君五十日百日の儀なり。北條殿これを沙汰し給う。女房陪膳に候ぜず。江間
  殿これを従わしめ給う。御贈物を進ぜらる。御劔・砂金・鷲の羽なりと。武州・上州
  ・参州・相州・因州・常胤・朝政・朝光・重忠・義澄・宗平(中村の庄司)・行平・
  知家・[遠光]・盛長・遠元・清重・義盛・景廉・景時・朝景・景光等十字を送り給
  う。