1192年 (建久3年 壬子)
 
 

12月2日 庚子
  本覺院の宰相僧正公顕帰洛す。すでに両度の屈請に応ず。多生の芳契を謂うべきか。
 

12月5日 癸卯
  御堂供養の事に依って群集せしめ未だ退散せず。而るに今日武蔵の守・信濃の守・相
  模の守・伊豆の守・上総の介・千葉の介・小山左衛門の尉・下河邊の庄司・小山の七
  郎・三浦の介・佐原左衛門の尉・和田左衛門の尉等を濱の御所に召し聚めらる。各々
  北面十二間に着す。将軍家自ら新誕の若公を懐き奉り出御す。この嬰児の鍾愛殊に甚
  だし。各々意を一つにして将来を守護せしむべきの由、慇懃の御詞を尽くされ、剰え
  盃酒を給う。女房大貳の局・近衛の局杓を取り盃を持つと。仍って面々若公を懐き奉
  り、御引出物(各々腰の刀)を献る。謹んで承るの由を申し退出すと。
 

12月10日 戊申
  女房大進の局、先日伊勢の国三箇山を拝領する事、子細を申さるるに依って、重ねて
  政所御下文を遣わさる。民部の丞行政これを奉行すと。
 

12月11日 己酉
  走湯山の住侶専光房使者を進す。申して云く、直實が事御旨を承るに就いて、則ち海
  道を走り向かうの処、上洛を企てるの間、忽然として行き逢いをはんぬ。すでに法躰
  たるなり。而るにその性殊に異様なり。ただ仰せの趣を称し抑留せしむるの條、曽っ
  て承引すべからず。仍って先ず出家の功徳を讃嘆し、次いで相構えて草庵に誘い来た
  り。同法等を聚め浄土宗の法門を談り、漸く彼の鬱憤を和順せしむるの後、一通の書
  札を造り、遁世逐電の事を諫諍す。茲に因って上洛に於いては猶予の気出来するか。
  てえれば、その状の案文を送り進すと。将軍家太だ感ぜしめ給う。猶秘計を廻らし、
  上洛の事を留むべきの由仰せらると。[専光の状案に云く、]
   遠くは月氏の先蹤を訪い、近くは日域の旧規を案ずるに、有為の境を出で、無為の
   道に入るは、専ら制戒の定まる所、佛勅限り有り。抑も霊山金人の王舎城を出で、
   壇特山に入り、猶摩耶の恩徳を報ぜんが為に、トウ利天に安居せしむること九十日、
   花山法皇の鳳凰城を去り、熊野山に臨む。また皇祖の菩提を救わんが為に、那智雲
   に参籠せしむること三ヶ年、これ皆智恩を表し恩理に報いんが故のものか。爰に貴
   殿図らずも出家の道を起して、遁世有るべきの由その聞こえ有り。この條冥慮に通
   ずるに似たりと雖も、頗る主命に背かしむるものか。凡そ武略の家に生まれ、弓箭
   の習いに携わり、身を殺すを痛まず。偏に死に至るを思うは、勇士の執る所なり。
   これ則ち布諾に背かず、芳契を忘れざるの謂われなり。而るに今忽ち入道し遁世せ
   しむるは、仁義の礼に違い、累年の本懐を失わんか。如じ、縦え出家の儀有りと雖
   も、元の如く本座に還らしめよ。もし然らずんば物儀に背かず、宜しく天意に叶う
   べきものならんや。これを為すこと如何。
  この直實風諫の雁札を以て、来葉称美の亀鑑に伝えんが為、右京の進仲業にこれを預
  け置かると。
 

12月14日 壬子
  一條前の黄門の書状参着す。亡室の遺跡の跡二十箇所を以て、男女の子息に譲補す。
  将来の乖違を塞がんが為、去る月二十八日宣旨を申し下しをはんぬ。右中弁棟範朝臣
  宣を伝う。権中納言(兼光卿)宣べ勅を奉ると。これ平家没官領の内、摂津の国福原
  庄・武庫の御厨・小松庄・尾張の国高畠庄・御器所松枝領・美濃の国小泉の御厨・椎
  庄・津不良領・近江の国今西庄・粟津庄・播磨山田領・下端庄・大和の国田井・兵庫
  庄・丹波の国篠村領・越前の国足羽の御厨・肥後の国八代庄・備後の国信敷庄・吉備
  津の宮・淡路の国志築庄、已上二十箇所、先日黄門の室家(将軍家御妹なりと)に譲
  り奉らるなりと。
 

12月20日 戊午
  渋谷の輩は偏に勇敢を備え、尤も御意に相叶うの間、公事勤役を慰めんが為、彼等が
  領所相模の国吉田庄の地頭を以て、領家圓満院に申請せられ、請け所と為す。御倉の
  納物を以てその乃貢に贖わるる所なり。
   前の右大将家政所
   運上 相模の国吉田御庄の御年貢送文の事
     合わせ准布六百七拾四段二丈の内(六十一反を加う、先分料)
     見布二百六拾七段
    染衣五切            代百反(各々二十反)
    上品八丈絹六疋         代百二十反(各々二十反)
    納布九反の内(上二反、中七反) 代
    藍摺準布 三十反        代六十反
    紺布二反(無文)        代四反
    率駄二疋(これは不審なり)   代四十反
    持者七人            代五十二反二丈
    例進長鮑千百五十帖
    移花十五枚
    染革二十枚
   右、夫領助弘に付け、運上件の如し。
     建久三年十二月二十日     平(御判)
 

12月23日 辛酉
  若公万寿、この一両日御不例。今日疱瘡出現し給う。この事都鄙殊に盛んにして、尊
  卑遍く煩うと。
 

12月28日 丙寅
  伊勢太神宮の御領武蔵の国大河戸の御厨所済の事、員数を増し、神主に対し当所の田
  代八百余丁を定め下さるるなり。平家知行の時、本宮御上分は国絹百拾三疋の外、神
  用すること能わずと雖も、この御時に当たって、公私の御祈祷の為に、正官物並びに
  免じ奉らるる所なり。所謂本田町別に二疋四丈、新田町別に二石、所当田町別に一石
  三斗と。因幡の前司・籐民部の丞等これを奉行すと。
 

12月29日 丁卯
  東大寺修造の間の事、重ねて仰せ下さるるの趣、前の左衛門の尉定綱言上する所なり。
  早く周防の国の材木を催促すべきの由仰せ遣わさると。
  今日走湯山の専光房歳末の巻数を献る。その次いでを以て申して云く、直實法師上洛
  の事は、偏に羊僧が諷詞に就いて思い止まりをはんぬ。但し左右無く営中に還り参る
  べからず。暫く武州に隠居すべきの由これを申すと。