1193年 (建久4年 癸丑)
 
 

2月3日 庚子
  旧院周関の御佛事の奉為に、召し聚めらるる所の長絹五百疋を京都に進せらる。佐々
  木の四郎左衛門の尉高綱執り進すべきの由仰せ遣わさる。因幡の前司の沙汰たり。今
  日進発すと。
 

2月7日 甲辰
  来三月三日の鶴岡の法会舞楽の事は、先は伊豆・箱根両山の児童等を召しこれを遂行
  すと雖も、供僧・門弟等すでに数有り。また御家人の子息等の中、然るべき少生を撰
  び催し、調楽すべきの旨、若宮の別当法眼に仰せらると。これに因り因幡の前司の子
  息摩尼珠・判官代の子息藤一・筑後権の守の子息竹王等その撰びに応ずと。
 

2月9日 丙午
  武蔵の国丹・兒玉の党類確執の事有り。すでに合戦に及ばんと欲するの由その聞こ
  え有るに依って、相鎮むべきの旨、畠山の次郎重忠に仰せ付けらると。
 

2月10日 丁未
  毛呂の太郎季綱勧賞(武蔵の国泉勝田)を蒙る。豆州に御閑居の時、下部等不堪の事
  有って季綱の辺に牢籠す。季綱殊に恐惶の思いを成し、扶持を加え、豆州に送り進す
  の間、単孤の今、この労りは必ず報謝すべきの由これを思し食さるると。
 

2月18日 己卯
  畠山の次郎申して云く、丹・兒玉の輩合戦に及ばんと欲する事、制止を加うるに依っ
  て、両党和平し互いに退くと。
 

2月25日 壬戌
  平六左衛門の尉京都に於いて卒す。北條殿の腹心なり。且つは彼の眼代として、且つ
  は御使いとして在京し、多く勲功を施しをはんぬ。人々惜しむ所なり。
   前の左衛門の尉平の朝臣(年四十九)、北條の介時兼の男。
   文治二年七月十八日左兵衛の尉に任ず。同五年四月十日左衛門の尉(賀茂の臨時祭
   並びに御祈りの功)に任ず。建久元年七月十八日辞退す。
 

2月26日 癸亥 [玉葉]
  東大寺の柱、余一向に沙汰すべきの由、定長の許に仰せ遣わす。この日、記録所の評
  定有り。銭貨停否の間の事と。
 

2月27日 甲子
  鶴岡宮寺の舞殿この間新造す。今日これを立てらる。行政奉行たり。将軍家監臨し給
  うと。
 

2月28日 乙丑
  京都の警衛勤厚の御家人等は、その賞関東の近士に超過すべきの趣これを仰せ下さる。
 

2月29日 丙丑 [玉葉]
  この日、記録書の評定有り。銭貨停止の事なり。