1194年 (建久5年 甲寅)
 
 

閏8月1日 戊午 快晴
  将軍家三浦に渡御す。右武衛を相伴わしめ給う。これ三崎の津に於いて御山庄を建て
  らるべきが故なり。上総の介義兼・北條殿以下の扈従巷に満つと。先ず小笠懸有り。
  射手
    下河邊の庄司行平    小山の七郎朝光    和田左衛門の尉義盛
    八田左衛門の尉知重   海野の小太郎幸氏   藤澤の次郎清近
    梶原左衛門の尉景季   愛甲の三郎季澄    榛谷の四郎重朝
    橘次公業        里見の冠者義成    加々美の次郎長清
  秉燭るの程に、御台所並びに若君・姫君等渡御す。小山の五郎宗政・三浦兵衛の尉義
  村・佐々木中務の丞経高・梶原の三郎兵衛の尉景義・工藤の小二郎行光・小野寺の太
  郎道綱・右京の進季時・江兵衛の尉能範等供奉すと。三浦の介義澄経営す。醇酒興を
  催し珍膳美を加う。この所の眺望、浦の白浪青山に倚せ、凡そ地形の勝絶、興遊の便
  者を得たるか。
 

閏8月2日 己未
  御台所鎌倉に帰らしめ給う。今日は彼岸の初日なり。七箇日の間、御佛事を修せらる
  べきが故なり。御持佛堂に於いてこの儀有り。佛(釈迦・弥陀・弥勒・観音・文殊・
  不動)、経(法華)供養並びに同経読誦等なり。当日の御導師は法橋定豪なり。三浦
  に於いてまた小笠懸有り。昨日の勝負と。その後船中に於いて興宴。遊女一葉を棹さ
  し猿楽に参る。小法師・中太丸芸を施す。上下頤を解くと。
 

閏8月3日 庚申
  将軍家並びに右武衛三浦より還らしめ給う。
 

閏8月7日 甲子
  義定朝臣跡の屋地、江間殿拝領せしめ給うと。
 

閏8月8日 乙丑
  御台所の御佛事結願なり。今日志水の冠者追福の為、供養佛経を副え有り。
   導師 法橋定豪
   請僧 法眼行恵
   堅者 阿闍梨恵眼密蔵
  佛経讃歎の後、幽霊の往事等を述ぶ。聴衆皆随喜、鳴咽し悲涙を拭うと。
  布施
   導師 被物三重 裹物二つ 五衣一つ(加布施 供米三石)
   請僧(口別)  被物一重 裹物一つ 供米一石
  皇后宮大進為宗・修理の亮義盛・安房判官代高重・籐判官代邦通・新田蔵人義兼等こ
  れを取る。図書の允清定これを奉行す。
 

閏8月10日 丁卯
  相模の守惟義美濃の国中の没収地等を賜ると。
 

閏8月12日 己巳
  但馬の国多々良岐庄を以て、始めて地頭補任の地として、熊野の鳥居禅尼に付けらる
  べしと。これ所望に依ってなり。
 

閏8月15日 壬申
  将軍家鶴岡宮に御参り。自ら御供役送を勤めしめ給うと。
 

閏8月16日 癸酉
  一條前の黄門の使者京都より参着す。去る二日、病に依って素懐を遂げるの由これを
  申すと。今年四十八と。侍中三兵衛の尉兼経・小舎人荒四郎等出家せしむと。
 

閏8月21日 戊寅
  関東御分佛寺等の燈明以下の事、専ら精勤を抽んで、退転せしむべからざるの由、そ
  の所の地頭等に触れ仰せらると。
 

閏8月22日 己卯
  将軍家甘縄宮(伊勢別宮)に参る。還向の時を以て籐九郎盛長が家に入御すと。
 

閏8月28日 乙酉
  平六左衛門の尉時定が遺跡の事、子孫領掌せしむべしてえり。而るに本所領少々知行
  有る事、その地に於いては早く返し付くべきの由と。