1194年 (建久5年 甲寅)
 
 

10月1日 戊午
  大舎人の允三善の行倫、訴論人の問注詞を記すべきの由これを仰せ出ださる。日来父
  大夫屬入道善信奉行職なり。他事計会するに依って、行倫を挙し申すと。
 

10月9日 丙寅
  将軍家小山左衛門の尉朝政が家に入御す。朝政兄弟以下一族群参す。数輩祇候すと。
  この所に於いて弓馬の堪能等を召し聚め、旧記を披覧す。先蹤を相訪い、流鏑馬以下
  作物の射様を談らしめ給う。その故実、各々相伝ゆる所の家説、面々の意功一准なら
  ず。仍って前の右京の進仲業をして彼の意見を記し給う。これ明年御上洛の次いでに、
  即ち住吉社に御参り、御宿願を果たさんが為、堪能の者を以て流鏑馬を射さしめ給う
  べし。京畿の輩、もし見物に及ばば、定めてこれを以て東国射手の本と謂うべきか。
  然れば後難無きの様、兼日に能評議を凝らし用捨有り。その宜躰を若輩に学ばせしめ
  んが為この儀有りと。
  その衆
    下河邊の庄司行平   小山左衛門の尉朝政   武田兵衛の尉有時
    結城の七郎朝光    小笠原の次郎長清    和田左衛門の尉義盛
    榛谷の四郎重朝    工藤の小次郎行光    諏訪の大夫盛澄
    海野の小太郎幸氏   氏家の五郎公頼     小鹿嶋の橘次公業
    曽我の太郎祐信    藤澤の次郎清近     望月の三郎重澄
    愛甲の三郎季隆    宇佐美右衛門の尉祐茂  那須の太郎光助
 

10月13日 庚午
  永福寺内新造堂の事、今年中に供養を遂げらるべきに依って、導師として東大寺の別
  当僧正を請じ申さるべきの由と。仍って右京の進季時その使節として上洛すと。
 

10月17日 戊戌
  歯御療治の事、頼基朝臣これを注し申す。その上良薬等を献ず。籐九郎盛長これを伝
  え進す。彼の朝臣は、参河の国羽渭庄、関東の御恩として領知せしむる所なり。
 

10月18日 乙亥
  上総の介義兼御使いとして日向薬師堂に参ると。歯の御労御祈りの為なりと。
 

10月22日 己卯
  葛西兵衛の尉清重白き大鷹一羽を献ず。無双の逸物なりと。則ち結城の七郎朝光に預
  けらると。
 

10月25日 壬午
  勝長寿院に於いて如法経十種供養有り。これ故鎌田兵衛の尉正清が息女修する所なり。
  且つは故左典厩の御菩提を訪い奉らんが為、且つは亡父の追福を加えんが為、一千日
  の間、当寺に於いて浄侶を屈し、如説法華三昧を行わしめんと。願文は信救得業これ
  を草す。因幡の前司廣元これを清書すと。将軍家並びに御台所御結縁の為参らしめ給
  う。導師は大學法眼行恵。経王の功能と云い、施主の懇志と云い、述ぶる所の旨趣、
  すでに富楼那の弁智を褊す。聴衆双眼を抑え両袂を霑す。上野の介憲信・工匠蔵人・
  安房判官代高重等布施を取ると。彼の女姓の父左兵衛の尉正清は故大僕郷の功士なり。
  遂に一所に於いてその身を終う。仍って今将軍家殊に憐愍せしめ給うの間、遺弧を尋
  ねらるると雖も男子無く、適々この女子参上す。尾張の国志濃幾・丹波の国田名部両
  庄の地頭職を以て、恩補せしめ給いをはんぬと。
 

10月26日 癸未
  貢馬八疋並びに砂金・紫絹・染絹・綿等、御使い雑色これを相具し上洛す。昨夕門出
  すと。
 

10月29日 丙戌
  東の六郎大夫胤頼が子息等、本所瀧口に祇候せしむる事、向後子細を申さずと雖も、
  進退意に任すべきの旨仰せ下さると。