1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

1月1日 丁亥
  上総の前司義兼椀飯を献ず。相模の守惟義御劔を持参す。また御弓箭以下進物の事終
  り、将軍家更に西侍障子の上に出御す。盃酒数巡に及び、私に群遊を催すと。
 

1月2日 戊子
  千葉の介常胤椀飯を進す。
 

1月3日 己丑
  小山左衛門の尉朝光椀飯なり。
 

1月4日 庚寅
  将軍家籐九郎盛長が甘縄の家に入御す。三浦の介義澄以下供奉せしむと。
 

1月6日 壬辰 天晴 [玉葉]
  今日早旦、俊成入道参入す。その息定家叙位勘文に入るの事を悦び申す。余念誦の間
  謁せず。女房丹後に逢い和歌の事を談り退出すと。生年八十二と。言語・耳目共に以
  て分明と。
 

1月8日 甲午
  豊後の守季光と中条右馬の允家長と喧嘩を起こす。すでに合戦に及ばんと欲するの間、
  両方の縁者等馳せ集まる。仍って和田左衛門の尉義盛を遣わし和平せしめらる。家長
  に於いては、前の右衛門の尉知家に仰せて出仕を止めらる。養子たるが故なり。季光
  に至っては営中に召し、御家人等に対し闘戦し生涯を失わんと擬す。甚だ穏便の儀に
  非ざるの由、直に諷詞を加えらると。この騒動に依って、今日の心経會は延引せしむ
  と。すでに臨時の魔障に拘わり、恒例の仏事を閣かる。彼の両人の確執と謂うは、尤
  も二儀の冥慮に乖くものか。この事、季光は由緒有り。門葉に准えらるるの間、頗る
  宿徳の思いを住す。家長は壮年の身として知家が養子たり。我が権に誇り無礼を現す
  に依って、季光相咎むと。
 

1月13日 己亥
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。結城の七郎朝光御劔を持つ。海野の小太郎幸氏御調度を
  懸く。小倉野の三郎御甲を着すと。上総の前司以下供奉すと。還御の後、営中に於い
  て心経会を行わる。鶴岡の供僧等これに参勤す。御馬を引かると。
 

1月15日 辛丑
  法橋昌寛使節として上洛す。これ将軍家南都東大寺供養の御結縁の為、御京上有るべ
  きに依って、六波羅の御亭に修理を加うべきが故なり。
 

1月16日 壬寅
  眞如院僧正眞圓帰洛せらる。宿次・伝馬・送夫等の事、三浦の介義澄・民部の丞盛時
  等が奉行として支配すと。
 

1月20日 丙午
  北條殿伊豆の国に下向せらる。これ願成就院の修正以下年中仏事の條々、これを定め
  下さるるに依って、執行せしめんが為なり。
 

1月25日 辛亥
  将軍家三浦三崎の津に渡御す。船中遊興等有りと。義澄の一族等駄餉を儲くと。
 

1月27日 甲寅
  三浦より還御せしめ給う。