1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

3月4日 己丑 天晴
  将軍家江州鏡駅に於いて羈路に鞍馬を前め給う。爰に台嶺の衆徒等、勢多橋の辺に降
  りこれを見奉る。頗る橋の前途を謂うべきか。将軍家御駕を橋の東に安んじ、礼有る
  べきや否やを思し食し煩う。やがて小鹿嶋の橘次公業を召し、衆徒中に遣わし、子細
  を仰せらる。公業衆徒の前に跪き、申して云く、鎌倉将軍、東大寺供養結縁の為上洛
  するの処、各々群集何事に依ってぞや。尤も恐れ思い給い侍べる。但し武将の法、此
  の如き所に於いて下馬の礼無し。仍って乗りながら罷り通るべし。敢えてこれを咎め
  らるる莫れ。てえれば、返答を聞こし食さざるの以前に打ち過ぎせしめ給う。衆徒の
  前に至って、弓を取り直し聊か気色す。時に各々平伏すと。公業は幼少より京洛を経
  廻す。事に於いて故実を存ずるに依り、今この使節に応ずるの処、誠に言語巧みにし
  て鸚鵡の嘴耳を驚かす。進退正しくして龍虎の勢い眼を遮る。衆徒感嘆し万人称美す
  と。秉燭の程に六波羅の御亭に入御す。見物の車殆ど旋らすことを得ずと。
 

3月6日 辛卯
  相模の守惟義、将軍家奉幣の御使いとして六條若宮に参る。神馬(黒)一疋を奉らる
  と。
 

3月7日 壬辰
  左馬の頭隆保朝臣六波羅の御亭に参らる。将軍家御対面有り。御贈物等に及ぶと。そ
  の外の人々頗る群参すと。
 

3月9日 甲午
  七條院南都に御下向。これ東大寺供養有るべきに依ってなり。右馬の頭信清朝臣(年
  預)後騎に候ずと。今日将軍家石清水並びに左女牛若宮等に御参り。臨時祭たるに依
  ってなり。御乗車(網代)。若公は絵網代車を用いらる。御台所は八葉車(白御衣を
  出さる)に駕し給う。左馬の頭隆保朝臣・越後の守頼房は出車(両人共衛府二人を相
  具す)に乗る。前駆無し。源蔵人大夫頼兼・上総の介義兼・豊後の守季光等後騎たり。
  御幣・神馬(鴾毛二疋)等前をに行く。石清水に於いて寳前に通夜し給うと。
  路次の随兵十二騎
  先陣六騎
    畠山の次郎重忠       稲毛の三郎重成
    千葉の新介胤正       葛西兵衛の尉清重
    小山左衛門の尉朝政     北條の五郎時連
  後陣六騎
    下河邊の庄司行平      佐々木左衛門の尉定綱
    結城の七郎朝光       梶原源太左衛門の尉景季
    三浦の介義澄        和田左衛門の尉義盛
 

3月10日 乙未
  将軍家東大寺供養に逢わしめ給わんが為、南都東南院に着御す。石清水より直かに下
  向せしめ給うと。
  供奉人行列
  先陣
    畠山の次郎
    和田左衛門の尉(各々相並ばず)
  次に御随兵(三騎相並ぶ。各々家子・郎従、同じく甲冑を着し傍路に列す。その人数
        合期に随う所なり)
    江戸の太郎     大井の次郎     品河の太郎
    豊嶋兵衛の尉    足立の太郎     江戸の四郎
    岡部の小三郎    小代の八郎     山口兵衛の次郎
    勅使河原の三郎   浅見の太郎     甘糟の野次
    熊谷の又次郎    河匂の七郎     平子左馬の允
    阿保の五郎     加治の小次郎    高麗の太郎
    阿保の六郎     鴨志田の十郎    青木の丹五
    豊田兵衛の尉    鹿嶋の六郎     中郡の太郎
    真壁の小六     片穂の五郎     常陸の四郎
    下嶋権の守太郎   中村の五郎     小宮の五郎
    奈良の五郎     三輪寺の三郎    浅羽の三郎
    小林の次郎     同三郎       倉賀野の三郎
    太胡の太郎     深栖の太郎     那波の太郎
    渋河の太郎     吾妻の太郎     那波の彌五郎
    佐野の七郎     小野寺の太郎    園田の七郎
    皆河の四郎     山上の太郎     高田の太郎
    小串右馬の允    瀬下の奥太郎    坂田の三郎
    小室の小太郎    禰津の次郎     同小次郎
    春日の三郎     中野の五郎     笠原の六郎
    小田切の太郎    志津田の太郎    岩屋の太郎
    中野の四郎     新田の四郎     同六郎
    大河戸の太郎    同次郎       同三郎
    下河邊の四郎    同籐三       伊佐の三郎
    泉の八郎      宇都宮所      天野右馬の允
    佐々木三郎兵衛の尉 海野の小太郎    橘右馬次郎
    大嶋の八郎     中澤兵衛の尉    牧武者所
    藤澤の次郎     望月の三郎     多胡の宗太
    工藤の小次郎    横溝の六郎     土肥の七郎
    糟屋籐太兵衛の尉  梶原刑部兵衛の尉  本間右馬の允
    臼井の六郎     印東の四郎     天羽の次郎
    千葉の次郎     同六郎大夫     境平次兵衛の尉
    廣澤の與三     波多野の五郎    山内刑部の丞
    梶原刑部の丞    土屋兵衛の尉    土肥の先次郎
    和田の三郎     同小次郎      佐原の太郎
    河内の五郎     曽禰の太郎     里見の小太郎
    武田兵衛の尉    伊澤の五郎     新田蔵人
    佐竹別当      石河大炊の助    澤井の太郎
    関瀬修理の亮    村上左衛門の尉   高梨の次郎
    下河邊の庄司    八田右衛門の尉   三浦十郎左衛門の尉
    懐嶋平権の守入道(カチンノ直垂、サギノミノケニテトヅ。押入烏帽子、弓手の
             鐙ハスコシミジカシ。保元ノ合戦ノ時イラルヽ故なり)
              北條の小四郎    小山の七郎
  将軍(御車)
    相模の守      源蔵人大夫     上総の介(相並ぶ)
    伊豆の守      源右馬の助(相並ぶ)
    因幡の前司     三浦の介(相並ぶ)
    豊後の前司     山名の小太郎    那珂中左衛門の尉
    土肥の荒次郎    足立左衛門の尉   比企右衛門の尉
    籐九郎       宮大夫           所六郎
      已上狩装束
  次いで御随兵(三騎相並ぶ。家子・郎等の事先陣に同じ)
    小山左衛門の尉   北條の五郎     平賀の三郎
    奈古蔵人      徳河三郎      毛呂の太郎
    南部の三郎     村山の七郎     毛利の三郎
    浅利の冠者     加々美の次郎    同三郎
    後藤兵衛の尉    葛西兵衛の尉    比企の籐次
    稲毛の三郎     梶原源太左衛門の尉 加藤太
    阿曽沼の小次郎   佐貫の四郎     足利の五郎
    小山の五郎     三浦平六兵衛の尉  佐々木左衛門の尉
    小山田の四郎    野三刑部の丞    佐々木中務の丞
    波多野の小次郎   同三郎       沼田の太郎
    河村の三郎     原の宗三郎     同四郎
    長江の四郎     岡崎の與一太郎   梶原三郎兵衛の尉
    中山の五郎     渋谷の四郎     葛西の十郎
    岡崎の四郎     和田の五郎     加藤次
    小山田の五郎    中山の四郎     那須の太郎
    野瀬判官代     安房判官代     伊達の次郎
    岡辺の小次郎    佐野の太郎     吉香の小次郎
    南條の次郎     曽我の小太郎    二宮の小太郎
    江戸の七郎     大井の平三次郎   岡部右馬の允
    横山権の守     相模小山の四郎   猿渡の籐三郎
    笠原の十郎     堀の籐次      大野の籐八
    伊井の介      横地の太郎     勝田玄番の助
    吉良の五郎     浅羽庄司の三郎   新野の太郎
    金子の十郎     志村の三郎     中禅寺奥次
    安西の三郎     平佐古の太郎    吉見の次郎
    小栗の次郎     渋谷の次郎     武藤の小次郎
    天野籐内      宇佐美の三郎    海老名兵衛の尉
    長尾五郎      多々良の七郎    馬場の次郎
    筑井の八郎     臼井の與一     戸崎右馬の允
    八田兵衛の尉    長門の江七     中村兵衛の尉
    宗左衛門の尉    金持の次郎     奴加田の太郎
    大友左近将監    中條右馬の允    伊澤左近将監
    渋谷の彌五郎    佐々木の五郎    岡村の太郎
    伊俣の平六     庄の太郎      四方田の太郎
    仙波の太郎     岡辺の六野太    鴛の三郎
    古郡の次郎     都築の平太     筥田の太郎
    熊谷の小次郎    志賀の七郎     加世の次郎
    平山右衛門の尉   藤田の小三郎    大屋の中三
    諸岡の次郎     中條の平六     井田の次郎
    伊東の三郎     天野の六郎     工藤の三郎
    千葉の四郎     同五郎       梶原平次左衛門の尉
  後陣
    梶原平三
    千葉の新介(各々相並ばず。郎従数百騎を具す)
  最末
    前の掃部頭     伊賀の前司(相並ぶ)
    縫殿の助      遠江権の守(相並ぶ)
    源民部大夫     伏見民部大夫    中右京の進
    善隼人の佐     善兵衛の尉     平民部の丞
    越後の守  (面々家子・郎等を相具す)
      已上水干
  夜半に及び南都行幸有り。今日は往亡日なり。城外行幸に於いて、この日を用いらる
  るの例無しと。

[玉葉]
  未の刻、東大寺内頓宮に着御す。申の刻、余以下行事の公卿少々大仏殿に参り、荘厳
  の事を検知せしむ。夜に入り帰り来たり。雑人禁止の間の事、頼朝卿に仰せをはんぬ。
 

3月11日 丙申
  将軍家馬千疋を東大寺に施入せしめ給う。義盛・景時・成尋・昌寛等これを奉行す。
  凡そ御奉加、八木一万石・黄金一千両・上絹一千疋と。


3月12日 丁酉 朝雨霽る、午以後雨頻りに降り、また地震
  今日東大寺供養なり。雨師風伯の降臨、天衆地類の影向、その瑞掲焉たり。寅の一点
  に、和田左衛門の尉義盛・梶原平三景時、数万騎の壮士を催し具し、寺の四面近郭を
  警固す。日出以後、将軍家御参堂、御乗車なり。小山の五郎宗政御劔を持つ。佐々木
  中務の丞経高御甲を着す。愛甲の三郎季隆御調度を懸く。隆保・頼房等朝臣の扈従軒
  を連ぬ。伊賀の守仲教・蔵人大夫頼兼、宮内大夫重頼・相模の守惟義・上総の介義兼
  ・伊豆の守義範・豊後の守季光等供奉す。随兵に於いては数万騎これ有りと雖も、皆
  兼ねて辻々並びに寺内門外等を警固せしむ。その中に海野の小太郎幸氏・藤澤の次郎
  清親以下、殊なる射手を撰び、惣門左右の脇に座ぜしむと。御共の随兵に至ってはた
  だ二十八騎、相分け前後陣に候ず。但し義盛・景時等は、侍所司たるに依って、警固
  の事を下知せしむるの後、路次より更に騎馬す。各々最前・最末の随兵たりと。
  先陣の随兵
    和田左衛門の尉義盛
    畠山の次郎重忠     稲毛の三郎重成     千葉の新介胤正
    葛西兵衛の尉清重    梶原源太左衛門の尉景季 佐々木三郎兵衛の尉盛綱
    八田左衛門の尉朝重   岡崎の與一太郎     宇佐美の三郎祐茂
    土屋兵衛の尉義清    里見の太郎義成     加々美の次郎長清
    北條の小四郎義時    小山左衛門の尉朝政
  後陣の随兵
    下河邊の庄司行平    佐貫大夫廣綱      武田の五郎信光
    浅利の冠者長義     小山の七郎朝光     三浦十郎左衛門の尉義連
    比企右衛門の尉能員   天野民部の丞遠景    佐々木左衛門の尉定綱
    加藤次景廉       氏家の太郎公頼     江戸の太郎重長
    三浦の介義澄      千葉の次郎師常
    梶原平三景時
  堂前の庇に着座せしめ給うの後、見聞の衆徒等門内に群入するの刻、警固の随兵に対
  し嗷々の事有り。景時これを鎮めんが為に行き向かい、聊か無礼を現す。衆徒甚だこ
  れを相叱る。互いに狼藉の詞を発ち、いよいよ蜂起の基と為るなり。時に将軍家朝光
  を召す。朝光座を起ち、御前に参進するの時は、手を大床の端に懸け、立ちながら相
  鎮むべきの将命を奉る。衆徒に向かうの時は、その前に跪き敬屈し、前の右大将家の
  使者と称す。衆徒その礼に感じ、先ず自ら嗷々の儀を止む。朝光厳旨を伝えて云く、
  当寺は平相国の為に回禄し、空しく礎石を残し、悉く灰燼と為す。衆徒尤も悲歎すべ
  き事か。源氏適々大檀越として、造営の始めより供養の今に至るまで、微功を励まし
  合力を成す。剰え魔障を断ち仏事を遂げんが為、数百里の行程を凌ぎ、大伽藍の縁辺
  に詣ず。衆徒豈喜歓せざるや。無慙の武士、猶結縁を思い、供養の一遇を喜ぶ。有智
  の僧侶、何ぞ違乱を好み、吾が寺の再興を妨げんや。造意頗る不当なり。承り存ずべ
  きか。てえれば、衆徒忽ち先非を恥じ、各々後悔に及び、数千許輩一同静謐す。就中
  使者の勇士、容貌美好・口弁分明、ただに軍陣の武略に達するのみならず、すでに霊
  場の礼節を得存す。何家の誰人やの由、同音にこれを感ず。後の為姓名を聞かんと欲
  し、名謁るべきの旨頻りに詞を盡くす。朝光小山を称さず、結城の七郎と号し終わっ
  て帰参すと。次いで行幸。執柄以下の卿相雲客多く以て供奉す。未の刻に供養の儀有
  り。導師は興福寺別当僧正覺憲、呪願師は当寺別当権の僧正勝賢。凡そ仁和寺法親王
  以下諸寺の龍象衆会し一千口に及ぶと。誠にこれ朝家・武門の大営、見仏聞法の繁昌
  なり。当伽藍は、安徳天皇の御宇治承四年庚子十二月二十八日、平相国禅門の悪行に
  依って仏像灰に化し、堂舎燼を残しをはんぬ。爰に法皇重源上人に勅して曰く、本願
  の往躅を訪い、高卑の知識を唱え、梓匠に課して風業を勤め成さしめ、壇主に代わっ
  て不日の功を終うべきの由てえり。上人命旨を奉り、去る壽永二年己卯四月十九日、
  大宋国陳和卿をして始めて本仏の御頭を鋳奉る。同五月二十五日に至って、首尾三十
  余日、冶鋳十四度、鎔範功成りをはんぬ。文治元年乙巳八月二十八日、太上法皇手づ
  から御開眼。時に法皇数重の足代に攀じ登り、十六丈の形像を膽仰し給う。供奉の卿
  相以下、目眩み足振えて皆半階に留むと。供養の唱導は当寺別当法務僧正定編。呪願
  師は興福寺別当権の僧正信圓。講師は同寺権の別当大僧都覺憲。惣て屈する所の衲衣
  一千口なり。その後上人往昔の例を尋ね大神宮に詣ず。造寺祈念を致すの処、風社神
  ケンに依って、親しく二顆の宝珠を得る。当寺の重宝として勅封蔵に在り。同二年丙
  午四月十日、始めて周防の国に入り料材を抽採す。柱礎の構えと致し、土木の功を企
  つ。柱一本を載せるの車、駕牛百二十頭に牽かしむるの由なり。建久元年庚戌七月二
  十七日、大仏殿母屋の柱二本始めてこれを立つ。同十月十九日上棟。御幸有りと。草
  創の濫觴と謂うは、聖武天皇の御宇天平十四年壬午十一月三日、当寺建立の叡願に依
  って、大厦経営の祈請の為、始めて勅使を大神宮に発遣す。左大臣諸兄公これなり。
  同十七年乙酉八月二十三日、先ず敷地に壇を構え、同じく仏の後山を築く。同十九年
  丁亥九月二十九日大仏を鋳奉る。孝謙天皇の御宇天平勝宝元年己丑十月二十四日、そ
  の功(三箇年間八箇度これを鋳奉る)を終え、同十二月七日丁亥、供養を遂げらる。
  天皇並びに太上皇(聖武)寺院に幸す。導師は南天竺波羅門僧正。呪願師は行基大僧
  正。天平勝宝四年壬辰三月十四日、始めて泥金を大仏に奉る(金は、天平二十年始め
  て奥州より献ずる所なり。これ吾が朝砂金の始めたりと)。

[玉葉]
  甘露相再す。午上天晴、未の刻以後雨下る。この日東大寺供養なり。

[平家物語]
  鎌倉殿、大仏供養の随兵の守護の為に、三月十二日南都に入らせ給ふ。大衆恐れて引
  たるが、悉くある中に、怪しばみたる者見えければ、梶原を召て入らせ給ひつる。南
  の大門の東のわきに、怪しばみたる者有と。大衆の中へかきわけ入て、頭裹たる袈裟
  を引剥ぎて見れば、髭をばそりて頭をばそらざりけり。何者ぞと問ふに、平家の侍薩
  摩中務丞宗助と申者にて候なり。それはいかにといへば、もしや君をねらひ参らせ候
  とてなりと申せば、鎌倉殿打うなづかせ給ひて、汝が心ざし神妙なりとて、召置れて、
  大仏供養果てて、都へ御上り有て、宗助をば六條河原にて斬れにけり。
 

3月13日 戊戌 晴
  将軍家大仏殿に御参り。爰に陳和卿は宋朝の来客として、和州の巧匠に応ず。凡そそ
  の盧遮那仏の修餝を拝み、殆ど毘首羯摩の再誕と謂うべし。誠に直なる人にあらざる
  か。仍って将軍重源上人を以て中使と為し、値遇結縁の為、和卿を招かしめ給うの処、
  国敵対治の時、多く人命を断ち、罪業深重なり。謁するに及ばざるの由固辞再三す。
  将軍感涙を抑え、奥州征伐の時、着し給う所の甲冑並びに鞍馬三疋・金銀等を以て、
  和卿に贈らる。甲冑を賜り、造営の釘料として伽藍に施入し、鞍一口を止め、手掻会
  十列の移鞍として、同じくこれを寄進す。その外の龍蹄以下は領納すること能わず。
  悉く以てこれを返し献ると。

[愚管抄]
  東大寺供養。行幸。七條院御幸ありけり。大風大雨なりけり。この東大寺供養にあは
  むとて、頼朝修軍は三月四日また京上してありけり。供養の日東大寺に参りて、武士
  等うちまきてありける。大雨にて有りけるに、武士等われは雨にぬるるとだに思はぬ
  けしきにて、ひしとして居かたまりけるこそ、中々物みしれらん人の為にはをどろか
  しき程の事なりけれ。
 

3月14日 己亥
  将軍家帰路せしめ給うと。
 

3月16日 丙子
  晩に及んで宣陽門院に参り給うと。
 

3月20日 甲辰
  将軍家貢馬二十疋を禁裏に進せしめ給うと。
 

3月27日 辛亥
  御参内有り。前駆両三輩。また随兵八騎最末に在り。所謂
    北條の小四郎義時        宇佐美の三郎祐茂
    小山の七郎朝光         榛谷の四郎重朝
    三浦平六兵衛の尉義村      梶原平二左衛門の尉景高
    下河邊の庄司行平        千葉平次兵衛の尉常秀
 

3月29日 癸丑
  将軍家尼丹後二品(宣陽門院御母儀、旧院執権の女房なり)を六波羅の御亭に招請し
  給う。御台所・姫君等対面し給う。御贈物(銀作蒔筥を以て、砂金二百両を納れ、白
  綾三十端を以て地盤を餝ると)有り。また扈従の諸大夫・侍等、同じく御引出物に及
  ぶと。左近将監能直・左衛門の尉朝重等所役に従うと。
 

3月30日 甲寅
  将軍家御参内。殿下御参会有りと。この間門前に於いて、本間右馬の允犯人を搦め取
  ると。

[玉葉]
  参内。頼朝卿に謁し雑事を談る。この日官列見なり。通親上首たりと。

[愚管抄]
  内裏にて、また度々殿下見参しつつありけり。この度は万をぼつかなくやありけむ。