1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

12月2日 壬子
  駿河の国富士郡の済物綿千両京都に進せらる。常清・時澤等御使いたりと。
 

12月3日 晴 [三長記]
  為定朝臣申す。伊勢の国住人季廉等狼藉の事(仰せ、守護人経俊に仰すべし)。
 

12月5日 丙辰
  遠江の国の住人勝田玄番の助成長召し上げらる。これ当国の府光堂に於いて、闘乱・
  刃傷等に及ぶが故なり。
 

12月7日 戊午
  相模・武蔵両国の所済、絲・綿等京都に進せらる。新籐次俊長これを相具すと。
 

12月12日 癸亥
  千葉の介常胤款状を捧ぐ。これ魚鱗鶴翼の陣に向かい、毎度の勲功に抽んず。警夜巡
  昼の節を励まし、連年の勤労を積む。潛かにその貞心を論ずるに、恐らくは等類無き
  に似たり。老命後栄を期し難し。世事ただ上賞を憑む。早く存日の際恩沢に浴し、数
  輩子孫を省みんと欲するの由これを載す。殊に由緒有りと称し、美濃の国蜂屋庄を望
  み申すと。功績誠に憐恤せられ、随って人に軼ぎるなり。仍って連々恩賞を加えられ
  をはんぬ。重ねて仰せらるべきの條、曽って思し食し忘れず。但し蜂屋庄に於いては、
  故院の御時、仰せに依って地頭職を停止せしむるの間、今更これを申請し、宛賜るこ
  と能わざるか。便宜の地を以て、必ず御計らい有るべきの旨、御返報委曲を盡くさる。
  時に常胤太だ落涙し、慇懃の御気色すでに顕れをはんぬ。武将の御籌策また止むこと
  無し。今に於いてはその地を賜らずと雖も、恨みの限りに非ざるの由これを申すと。
 

12月16日 丁卯
  伊豆の国願成就院に於いて、鎮守を崇め奉るべき由その沙汰有り。これ去る比寺中毎
  夜怪異等有り。所謂或いは飛礫を以て堂舎の扉を打ち破り、天井動揺し人の歩むが如
  しと。妖徳に勝てず。仏神の崇敬、それ詐わり無くば、魔鬼の障碍何の危うきこと有
  らんや。
 

12月22日 癸酉
  将軍家籐九郎盛長が甘縄の家に入御す。今夜御止宿と。