1月2日 丙子 天晴 [玉葉]
午の刻東札到来す。この事聞き驚くなり。誰これを言う。
1月7日 辛巳 [玉葉]
聞書を見る。中宮御給をせられず。侍従資家これを賜う。内々信清朝臣に付け申し入
るの処、勅許有るべきの由と。而るに漏れをはんぬ。猶凶人等抑留すか。
2月24日 [長門三浦家文書]
**前の右大将家政所下文案
前の右大将家政所下す 周防の国仁保庄並びに恒富保住人
地頭職補任の事
平重経
右人、彼の職に補任するの状、仰せの所件の如し。住人宜しく承知すべし。以て下す。
建久八年二月二十四日 案主清原(在御判)
令大蔵丞藤原(在御判) 知家事中原
別当兵庫頭中原朝臣(在御判)
散位藤原朝臣(在御判)
3月の比 [皇帝紀抄]
蔵人大夫橘の兼仲並びに妻女、謀計の事に依って国々に配流せらる。また一心房上人
歓心同意の事に依って、武士の許に召し禁しめらる。前の齋院式子内親王(後白川院
皇女)この事に同意するの間、洛中に坐すべからざるの由、沙汰有りと雖も、議有っ
て止められをはんぬ。
3月20日 甲午 [玉葉]
造国司隆保朝臣従三位に叙す。上臈数輩超越す。不便の由、関白申せしむと雖も、勅
許無しと。能登の国を以て中将猶子源具親(師光入道子と)と。
3月21日 乙未 [玉葉]
梶井宮の病獲麟に及ぶ。而るに猶以て出仕す。人目を驚かすと。
6月 [遠江蒲明神宮文書]
**北条時政下文
(時政花押)
下す 蒲御厨
蒲上下両郷地頭職代に補任の事
源清成
右、人を以て彼の職と為す。所務を執行せしむべきの状件の如し。住人等宜し承知す
べし。遺失すべからず。故に下す。
建久八年六月日
*[神皇正統録]
頼朝卿信濃の国善光寺に御参詣。
8月27日 [三浦郡矢部郷御鑑帳(満昌寺)]
源頼朝公御参向在らせられ候処、この時諸士に内命有り。義明は我家その忠功無二の
旧臣なり。今日の対面生前の思へを作る。諸士一同御霊明神と崇むべし。則ち奠儀と
して永百貫文を成し下され給うと云う。
9月21日 [高野山文書]
**源頼朝下文案
在御判
紀伊の国安世川下司職の事
右、高雄上人の沙汰たるべきの状件の如し。
建久八年九月二十一日
10月4日 [北條九代記]
八萬四千基の塔供養(塔長さ五寸)、諸国叛亡の輩成仏得道の為なり。
10月13日 [愚管抄]
能保入道はうせにける。
[高野山文書]
**文覺譲り状案
在文覺房判
鎌倉殿より、安世川下司職を文覺ニ給て候なり。仍って兵衛殿(湯浅宗光)ニ譲り進
せしめ候。天王寺並びに高野大塔の杣の事共、能々沙汰せしめ給うべく候。彼の御下
文進せしめ候。謹言。
十月十三日 文覺
七郎兵衛の尉殿
12月15日 [神皇正統録]
源頼家(頼朝卿長男)、従五位右近衛少将に叙任(時に十六歳)。