1198年 (建久9年 戊午)
 
 

1月4日 壬寅 晴 [玉葉]
  今日頼朝卿の札到来す。造作を免せられば移徙また恐るべし。早く遂ぐべしと。中宮
  入内有るべきの由奏聞すと雖も、この仰せに依って奏すべからずと。

1月5日 癸卯 天晴 [玉葉]
  西山より頼朝卿の札を送らる。殊なる事無し。

1月6日 甲辰 時々雪降る、天晴 [玉葉]
  或る人云く、譲位有るべしと。明後日ばかりに大炊殿に幸き、閑院を以て新帝宮と為
  すべしと。十一日・二十一日の間、譲国の儀有りと。一昨日東脚到来す。その後事一
  定すと。或いは云く、二三宮の間践祚・当今王子立坊、或いは云く、直に皇子践祚と。
  これ等の説未だ一定有らずと。

1月7日 丁巳 天晴 [玉葉]
  譲位の事、譲国等の事、元より沙汰に及ばずと。幼主甘心せざるの由、東方頻りに申
  せしむと雖も、綸旨懇切、公朝法師下向の時、子細を仰せらるるの時、なまじいに承
  諾を申す。然れども皇子の中未だその人を定められず。関東許可の後、敢えて孔子の
  賦を取り、また御占いを行わる。皆能圓孫を以て吉兆たりと。仍って一定せられをは
  んぬ。この旨飛脚を以て関東に仰せられをはんぬ。彼の帰り来たるを待たず、来十一
  日伝国の事有るべしと。桑門の外孫、曽って例無し。而るに通親卿外祖(彼の外祖母
  を嫁しをはんぬ故なり)の威を振わんと為す。(中略)通親忽ち後院別当を補し、禁
  裏仙洞掌中に在るべきか。彼の卿日来猶国柄を執る(世源博陸と称す。また土御門と
  謂う)。今外祖の号を仮、天下独歩の体、ただ目を以てすべきか。明日、中納言中将
  を補すべしと。その後任大臣を行わるべし。右大将丞相に昇る。その将軍を奪い通親
  拝すべしと。外祖猶必ず大臣に補すべきか。今日東札到来す。その詞快然なり。還っ
  て恐れを為す。今夜北斗を拝し奉る。
[明月記]
  通親卿結構の外、帝王以下他の人有るべからざるか。

1月8日 丙申 陰晴不定 [玉葉]
  譲位の事風聞す。天下の事倉卒より起こる。人皆仰天すと。

1月11日 己酉 天晴 [玉葉]
  この日譲位なり。大炊御門より劔爾を閑院に渡せらる。頭の中将公経爾を捧ぐ。右中
  将成定昼の御座に御劔を持つ。(中略)新帝、今旦先ず博陸の家に渡御す。彼の宅よ
  り閑院に渡り給うと。
[愚管抄]
  通親はたと譲位をおこないて、この刑部卿三位(範子)が腹に能圓がむすめにてこの
  承明門院(在子)をはします腹に、王子の四にならせ給を践祚して、この院も今はや
  うやう意にまかせなばやと思召によりてかく行てけり。関東の頼朝にはいたうたしか
  なるゆるされもなかりけるにや。頼朝も手にあまりたる事かなと思ひけん。是等はし
  れる人もなきさかいの事なり。
[北條九代記]
  関白(基通)を改め摂政と為す。

1月16日 甲寅 晴 [三長記]
  清大儒(信弘)来たり語って云く、今度の御譲位頗る違例の事等有るの由、人以てこ
  れを称すと。廷尉辻々を固む。然れども見物の車軒を連ぬること糺弾せず。御譲位立
  車見物曽って未曾有と。

1月30日 [神皇正統録]
  源頼家讃岐権の介を任ず。
[三長記]
  (前略)
   阿波守藤忠清      権守源重定(兼)
     介藤国通      讃岐権守藤定頼(兼)
    権介源頼家(兼)   太宰大貳藤季能
  (後略)
 

2月5日 [北條九代記]
  検非違使安部の資兼、小松六代房を搦め取り、関東に進す。多古江河に於いて首を刎
  る。

2月14日 [神皇正統録]
  西行法師(歌人、圓位上人と号す。俗名佐藤兵衛の尉藤原の範清。鳥羽院北面)死去
  す。これ鎮守府将軍秀郷(俵籐太)九代の嫡家左衛門の尉□清の子なり。
 

3月5日 [北條九代記]
  平の景経、老母打擲の罪科に依って、彼の所領を収公せられ、母に付けられをはんぬ。
 

6月16日 壬午 天晴 [玉葉]
  この夜、中宮御方、故光長卿女子(忠良朝臣室妻なり)初参すと。
 

7月14日 [愚管抄]
  京へ参らすべしと聞えし頼朝がむすめ久くわづらいてうせにけり。京より實全法印と
  云験者くだしたりしも全くしるしなし。いまだ京へのぼりつかぬ先に、うせぬるよし
  聞へて後、京へいれりければ、祈殺して帰りたるにてをかしかりけり。
  能保が子高能と申し、わかくて公卿に成て参議兵衛督なりし、さはぎ下りなんどして
  ありし程に、頼朝この後京の事ども聞て、なお次のむすめを具してのぼらんずと聞ゆ。

7月28日 [皇帝紀抄]
  上皇摂政の宇治亭に御幸す。翌日勧賞有り。興福寺の訴えに依って、和泉の守宗宣(親
  宗卿息)淡路の国に配流の事起こる。父卿上皇の御熊野御詣でに勤仕する為泉州に下
  向す。世以て甘心せざるの処、遂に春日の神人殺害に依って事有るか。
 

9月8日 [甲斐大善寺文書]
**関東御教書案
  甲斐国かしはおの山寺塔くやうするよしきこしめす。それに御馬雑色といひ、神人と
  いひ、又国雑色といひて、僻事なんとするともからあらは、左右無くからめて進すべ
  きなりてえり。前の大将殿仰せ此の如し。仍って執達件の如し。
    九月八日            平(盛時)御判
  加藤次殿

9月17日 [愚管抄]
  高能卿うせにき。
 

12月27日 [承久記]
  相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時よ
  り水神に領せられて、病患頻りに催す。
[保暦間記]
  大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義
  廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村
  崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付
  たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則
  病付給けり。
[神皇正統録]
  相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する
  所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これよ
  り以て病悩を受く。