1月4日 壬寅 晴 [玉葉]
今日頼朝卿の札到来す。造作を免せられば移徙また恐るべし。早く遂ぐべしと。中宮
入内有るべきの由奏聞すと雖も、この仰せに依って奏すべからずと。
1月5日 癸卯 天晴 [玉葉]
西山より頼朝卿の札を送らる。殊なる事無し。
1月6日 甲辰 時々雪降る、天晴 [玉葉]
或る人云く、譲位有るべしと。明後日ばかりに大炊殿に幸き、閑院を以て新帝宮と為
すべしと。十一日・二十一日の間、譲国の儀有りと。一昨日東脚到来す。その後事一
定すと。或いは云く、二三宮の間践祚・当今王子立坊、或いは云く、直に皇子践祚と。
これ等の説未だ一定有らずと。
1月7日 丁巳 天晴 [玉葉]
譲位の事、譲国等の事、元より沙汰に及ばずと。幼主甘心せざるの由、東方頻りに申
せしむと雖も、綸旨懇切、公朝法師下向の時、子細を仰せらるるの時、なまじいに承
諾を申す。然れども皇子の中未だその人を定められず。関東許可の後、敢えて孔子の
賦を取り、また御占いを行わる。皆能圓孫を以て吉兆たりと。仍って一定せられをは
んぬ。この旨飛脚を以て関東に仰せられをはんぬ。彼の帰り来たるを待たず、来十一
日伝国の事有るべしと。桑門の外孫、曽って例無し。而るに通親卿外祖(彼の外祖母
を嫁しをはんぬ故なり)の威を振わんと為す。(中略)通親忽ち後院別当を補し、禁
裏仙洞掌中に在るべきか。彼の卿日来猶国柄を執る(世源博陸と称す。また土御門と
謂う)。今外祖の号を仮、天下独歩の体、ただ目を以てすべきか。明日、中納言中将
を補すべしと。その後任大臣を行わるべし。右大将丞相に昇る。その将軍を奪い通親
拝すべしと。外祖猶必ず大臣に補すべきか。今日東札到来す。その詞快然なり。還っ
て恐れを為す。今夜北斗を拝し奉る。
[明月記]
通親卿結構の外、帝王以下他の人有るべからざるか。
1月8日 丙申 陰晴不定 [玉葉]
譲位の事風聞す。天下の事倉卒より起こる。人皆仰天すと。
1月11日 己酉 天晴 [玉葉]
この日譲位なり。大炊御門より劔爾を閑院に渡せらる。頭の中将公経爾を捧ぐ。右中
将成定昼の御座に御劔を持つ。(中略)新帝、今旦先ず博陸の家に渡御す。彼の宅よ
り閑院に渡り給うと。
[愚管抄]
通親はたと譲位をおこないて、この刑部卿三位(範子)が腹に能圓がむすめにてこの
承明門院(在子)をはします腹に、王子の四にならせ給を践祚して、この院も今はや
うやう意にまかせなばやと思召によりてかく行てけり。関東の頼朝にはいたうたしか
なるゆるされもなかりけるにや。頼朝も手にあまりたる事かなと思ひけん。是等はし
れる人もなきさかいの事なり。
[北條九代記]
関白(基通)を改め摂政と為す。
1月16日 甲寅 晴 [三長記]
清大儒(信弘)来たり語って云く、今度の御譲位頗る違例の事等有るの由、人以てこ
れを称すと。廷尉辻々を固む。然れども見物の車軒を連ぬること糺弾せず。御譲位立
車見物曽って未曾有と。
1月30日 [神皇正統録]
源頼家讃岐権の介を任ず。
[三長記]
(前略)
阿波守藤忠清 権守源重定(兼)
介藤国通 讃岐権守藤定頼(兼)
権介源頼家(兼) 太宰大貳藤季能
(後略)
2月5日 [北條九代記]
検非違使安部の資兼、小松六代房を搦め取り、関東に進す。多古江河に於いて首を刎
る。
2月14日 [神皇正統録]
西行法師(歌人、圓位上人と号す。俗名佐藤兵衛の尉藤原の範清。鳥羽院北面)死去
す。これ鎮守府将軍秀郷(俵籐太)九代の嫡家左衛門の尉□清の子なり。
3月5日 [北條九代記]
平の景経、老母打擲の罪科に依って、彼の所領を収公せられ、母に付けられをはんぬ。
6月16日 壬午 天晴 [玉葉]
この夜、中宮御方、故光長卿女子(忠良朝臣室妻なり)初参すと。
7月14日 [愚管抄]
京へ参らすべしと聞えし頼朝がむすめ久くわづらいてうせにけり。京より實全法印と
云験者くだしたりしも全くしるしなし。いまだ京へのぼりつかぬ先に、うせぬるよし
聞へて後、京へいれりければ、祈殺して帰りたるにてをかしかりけり。
能保が子高能と申し、わかくて公卿に成て参議兵衛督なりし、さはぎ下りなんどして
ありし程に、頼朝この後京の事ども聞て、なお次のむすめを具してのぼらんずと聞ゆ。
7月28日 [皇帝紀抄]
上皇摂政の宇治亭に御幸す。翌日勧賞有り。興福寺の訴えに依って、和泉の守宗宣(親
宗卿息)淡路の国に配流の事起こる。父卿上皇の御熊野御詣でに勤仕する為泉州に下
向す。世以て甘心せざるの処、遂に春日の神人殺害に依って事有るか。
9月8日 [甲斐大善寺文書]
**関東御教書案
甲斐国かしはおの山寺塔くやうするよしきこしめす。それに御馬雑色といひ、神人と
いひ、又国雑色といひて、僻事なんとするともからあらは、左右無くからめて進すべ
きなりてえり。前の大将殿仰せ此の如し。仍って執達件の如し。
九月八日 平(盛時)御判
加藤次殿
9月17日 [愚管抄]
高能卿うせにき。
12月27日 [承久記]
相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時よ
り水神に領せられて、病患頻りに催す。
[保暦間記]
大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義
廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村
崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付
たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則
病付給けり。
[神皇正統録]
相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する
所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これよ
り以て病悩を受く。