1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 

1月13日 [北條九代記]
  右幕下薨ず(五十三)。

*[承久記]
  半月に臥し、心神疲屈して、命今は限りと見へ給ふ時、孟光を病床に語て曰く、「半
  月に沈み、君に階老を結て後、多年を送き。今は同穴の時に臨めり」。嫡子少将頼家
  を喚出し、宣玉ひけるは、「頼朝は運命既に尽ぬ。なからん時、千万糸惜せよ。八ヶ
  国の大名・高家が凶害に付くべからず。畠山を憑て日本国をば鎮護すべし」と遺言を
  し給ひける。

*[愚管抄]
  関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて十一日に出家して、十三日にうせ
  にけりと。十五六日より聞へたちにき。今年必しづかにのぼりて世の事沙汰せんと思
  ひたりけり。万の事存の外に候などぞ。九條殿へは申つかはしける。
 

1月18日 晴陰 雪飛び甚だ寒し [明月記]
  早旦閭巷の説に云く、前の右大将所労獲鱗に依って、去る十一日出家するの由、飛脚
  を以て夜前院に申さる。仍って公澄を以て御使いとして、夜中下向すべきの由仰せら
  る。また公朝法師宣陽門院の御使いとして相共に馳せ下る。朝家の大事何事に過ぐる
  や。怖畏逼迫の世か。また或る説に云く、すでに早世すと。
 

1月20日 天晴 [明月記]
  前の将軍、去る十一日出家、十三日入滅(大略頓病か)す。未の時ばかりに除目。少
  納言忠明、内蔵頭仲経(兼)、右近大将通親、中将頼家、(以下略)

[愚管抄]
  除目行ひて、通親は右大将に成にき。故摂政をば後京極殿と申すにや。その内大臣な
  りしをこして、頼實大相国入道をば右大臣になしてき。この除目に頼朝が家つぎたる
  嫡子の頼家をば左中将になしてき。
 

1月22日 天晴 [明月記]
  右大将初任の翌日より閉門す。前の将軍有事の由奏聞せず(傍輩また此の如し)。見
  存の由を称し、除目を行うの後薨逝を聞き、忽ち驚歎するの由、相示さんが為に閉門
  すと。奇謀の至りなり。また巷説に云く、院中物騒にて、上辺兵革の疑い有り。御祈
  り千万神馬を引かる。
 

1月26日 天晴雪飛ぶ [明月記]
  巷説、京中騒動し、衆口狂乱す。院中また物騒にて新大将猶世間を恐ると。
 

1月28日 天晴 [明月記]
  世間の狂言日を遂って嗷々す。院中の警固軍陣の如しと。
 

1月30日 天晴 [明月記]
  天下の穢に依って、諸社祭停止の由仰せらるると。