1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

2月2日 天晴 [明月記]
  今日寅の時八幡炎上有り。西谷大塔・小塔・釈迦堂・鐘楼小屋等少々と。
 

2月4日 戊辰 霽
  羽林殿下去る月二十日左中将に転じ給う。同二十六日宣下に云く、前の征夷将軍源朝
  臣の遺跡を続ぎ、宜しく彼の家人・郎従等をして、旧の如く諸国守護を奉行せしむべ
  きてえり。彼の状到着するの間、今日吉書始め有り。清大夫日時を撰び申すと。北條
  殿・兵庫の頭廣元朝臣・前の大和の守光行朝臣・中宮大夫屬入道善信・三浦の介義澄
  ・八田右衛門の尉知家・和田左衛門の尉義盛・比企右衛門の尉能員・梶原平三景時・
  籐民部の丞行光・平民部の丞盛時・右京の進仲業・文章生宣衡等政所に到着す。善信
  吉書を草す。武蔵の国海月郡の事と。仲業清書を加う。廣元朝臣これを持参す。羽林
  寝殿を出でこれを披覧し給う。この事故将軍薨御の後、未だ二十箇日を経ずと雖も、
  綸旨厳密の間、重々その沙汰有り。内々の儀を以て先ずこれを遂行せらると。
 

2月11日 天晴、夜に入り甚雨大風 [明月記]
  一昨日京中忽ち騒動す。隆保朝臣北小路東洞院に行き向かい、諸武士を喚集し議定す。
  この事に依って天下また狂乱す。衆口嗷々すと。これ皆不幸の人殃を招くべきの故か。
 

2月12日 天晴 [明月記]
  午の時ばかりに帰京し坊門に入る。関東の飛脚帰京す。右大将光を放ち、損亡すべき
  人々等多しと。
 

2月14日 天晴 [明月記]
  京中また騒動す。左衛門の尉三人(基清・政経・義成)、新中将雑色これを召し取り
  参院す。先ず惟義が許に向かい、武士守護し院の御所に渡さる。武士三人を給うと。

[愚管抄]
  能保入道・高能卿などが跡のためにむげにあしかりければ、その郎等どもに(後藤兵
  衛)基清、(中原)政経、(小野)義成など云三人の左衛門の尉ありけり。頼家が世
  に成って梶原が太郎左衛門の尉にのぼりたりけるに、この源大将が事などをいかに云
  たりけるにか。それを又かく是等が申候なりと告たりける程に、ひしと院の御所に参
  り籠て、只今まかり出でば殺され候なんずとて、なのめならぬ事出きて、頼家がり又
  廣元は方人にてありけるして、やうやうに云てこの三人を三左衛門とぞ人は申し、是
  等を院の御前にわたして、三人の武士給わりて流罪してけり。通親公うせて後は、皆
  めし返されてめでたくて候き。
 

2月15日 丁丑
  京都の使者参着す。去る一日丑の刻石清水に火有り。但し神殿・堂塔の災に及ばずと。
  また五日丁卯、大原野釈奠等、関東御穢気に依って延引すと。
 

2月16日 天晴 [明月記]
  近日この近辺の門々戸々、資財を運び東西南北に馳走す。相互に我由を知らずと称す
  と雖も、心中皆臆病か。
 

2月17日 晴陰大風小雪 [明月記]
  今暁宰相中将公経卿・保家朝臣・隆保朝臣出仕を止めらると。巷説に公卿七人滅亡す
  べし。誰人を知らず。文覺上人(年来前の大将の帰依に依って、その威光天下に充満
  す。諸人追従の僧なり)、夜前検非違使守護すべきの由宣下せらると。別当官人を相
  具し参院す。夜半ばかりに廷尉三人これを承ると。
 

2月18日 天晴 [明月記]
  夜に入り静闍梨来る。今日院の御読経結願す。偏にこれ前の右大将追善と。右大将(直
  衣、未拝賀人)以下済々布施を取る。この御読経の事以上新大将沙汰す(また申し行
  うと)。
 

2月26日 天晴 [明月記]
  親能今朝入洛す。天下の事決すべしと。また云く、夜前入洛すと。
 

2月27日 天晴 [明月記]
  世間云々の説今日頗る無為す。彼是その故を知らず。