2月2日 天晴 [明月記]
今日寅の時八幡炎上有り。西谷大塔・小塔・釈迦堂・鐘楼小屋等少々と。
2月4日 戊辰 霽
羽林殿下去る月二十日左中将に転じ給う。同二十六日宣下に云く、前の征夷将軍源朝
臣の遺跡を続ぎ、宜しく彼の家人・郎従等をして、旧の如く諸国守護を奉行せしむべ
きてえり。彼の状到着するの間、今日吉書始め有り。清大夫日時を撰び申すと。北條
殿・兵庫の頭廣元朝臣・前の大和の守光行朝臣・中宮大夫屬入道善信・三浦の介義澄
・八田右衛門の尉知家・和田左衛門の尉義盛・比企右衛門の尉能員・梶原平三景時・
籐民部の丞行光・平民部の丞盛時・右京の進仲業・文章生宣衡等政所に到着す。善信
吉書を草す。武蔵の国海月郡の事と。仲業清書を加う。廣元朝臣これを持参す。羽林
寝殿を出でこれを披覧し給う。この事故将軍薨御の後、未だ二十箇日を経ずと雖も、
綸旨厳密の間、重々その沙汰有り。内々の儀を以て先ずこれを遂行せらると。
2月11日 天晴、夜に入り甚雨大風 [明月記]
一昨日京中忽ち騒動す。隆保朝臣北小路東洞院に行き向かい、諸武士を喚集し議定す。
この事に依って天下また狂乱す。衆口嗷々すと。これ皆不幸の人殃を招くべきの故か。
2月12日 天晴 [明月記]
午の時ばかりに帰京し坊門に入る。関東の飛脚帰京す。右大将光を放ち、損亡すべき
人々等多しと。
2月14日 天晴 [明月記]
京中また騒動す。左衛門の尉三人(基清・政経・義成)、新中将雑色これを召し取り
参院す。先ず惟義が許に向かい、武士守護し院の御所に渡さる。武士三人を給うと。
[愚管抄]
能保入道・高能卿などが跡のためにむげにあしかりければ、その郎等どもに(後藤兵
衛)基清、(中原)政経、(小野)義成など云三人の左衛門の尉ありけり。頼家が世
に成って梶原が太郎左衛門の尉にのぼりたりけるに、この源大将が事などをいかに云
たりけるにか。それを又かく是等が申候なりと告たりける程に、ひしと院の御所に参
り籠て、只今まかり出でば殺され候なんずとて、なのめならぬ事出きて、頼家がり又
廣元は方人にてありけるして、やうやうに云てこの三人を三左衛門とぞ人は申し、是
等を院の御前にわたして、三人の武士給わりて流罪してけり。通親公うせて後は、皆
めし返されてめでたくて候き。
2月15日 丁丑
京都の使者参着す。去る一日丑の刻石清水に火有り。但し神殿・堂塔の災に及ばずと。
また五日丁卯、大原野釈奠等、関東御穢気に依って延引すと。
2月16日 天晴 [明月記]
近日この近辺の門々戸々、資財を運び東西南北に馳走す。相互に我由を知らずと称す
と雖も、心中皆臆病か。
2月17日 晴陰大風小雪 [明月記]
今暁宰相中将公経卿・保家朝臣・隆保朝臣出仕を止めらると。巷説に公卿七人滅亡す
べし。誰人を知らず。文覺上人(年来前の大将の帰依に依って、その威光天下に充満
す。諸人追従の僧なり)、夜前検非違使守護すべきの由宣下せらると。別当官人を相
具し参院す。夜半ばかりに廷尉三人これを承ると。
2月18日 天晴 [明月記]
夜に入り静闍梨来る。今日院の御読経結願す。偏にこれ前の右大将追善と。右大将(直
衣、未拝賀人)以下済々布施を取る。この御読経の事以上新大将沙汰す(また申し行
うと)。
2月26日 天晴 [明月記]
親能今朝入洛す。天下の事決すべしと。また云く、夜前入洛すと。
2月27日 天晴 [明月記]
世間云々の説今日頗る無為す。彼是その故を知らず。