1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

3月2日 甲子
 故将軍四十九日の御仏事なり。導師は大學法眼行慈と。
 

3月4日 天晴 [明月記]
  三人の金吾昨今関東に下向すと。同道せず。各々武士等これを預かり相具す。この輩
  七人(父子)解官と。
 

3月5日 丁酉 雨降る
  後藤左衛門の尉基清罪科有るに依って、讃岐守護職を改められ、近藤七国平を補せら
  る。幕下将軍の御時定め置かるる事、改めらるるの始めなりと。また故将軍姫君(乙
  姫君と号す。字三幡)、去る比より御病悩、御温気なり。頗る危急に及ぶ。尼御台所
  諸社の祈願有り。諸寺誦経を修し給う。また御所に於いて一字金輪法を修せらる。大
  法師聖尊(阿野少輔公と号す)これを奉仕す。
 

3月6日 戊戌 晴
  今月より毎月中将家御当年の星祭を行うべきの由、主計の頭安部の資元朝臣に仰せら
  る。その趣廣元朝臣の奉書に載せ、雑色を以て京都に遣わさるる所なり。
 

3月11日 癸卯 晴
  鶴岡八幡宮去る月の神事、今日これを遂行せらる。去る正月に幕下将軍薨じ給い、鎌
  倉中触穢の間、式月延引するなり。

[明月記]
  右大将拝賀。
 

3月12日 甲辰
  姫君日を追って憔悴し御う。これに依り療養を加え奉らんが為、針博士丹波の時長を
  召さるるの処、頻りに固辞し敢えて仰せに応ぜず。件の時長は当世名医の誉れ有るの
  間、重ねて沙汰有り。今日専使を差し上せらる。猶以て障りを申せしめば、子細を仙
  洞に奏達すべきの旨、在京の御家人等に仰せらると。
 

3月19日 [皇帝紀抄]
  高雄の文覺上人、院勘に依って佐渡の国に配流せらる(二ヶ度流刑を行わるる者なり)。
 

3月20日 天晴陰、夕雨降る [明月記]
  文覺上人夜前に流罪定めをはんぬ。左中弁これを示さる。
 

3月22日 甲寅
  佐々木三郎兵衛の尉盛綱法師款状を捧ぐ。微質沈淪す。すでに幕下の御代に異なる。
  ただ恩沢の厚薄を存ずるに非ず。還って知行所領等を召されをはんぬ。天運を恥ると
  雖も、猶知慮に迷うの由と。

[明月記]
  関東に遣わさるる金吾三人、請け取らず路より追い上げ、左右勅定に随うべくこれを
  申す。或いは云く斬罪と。
 

3月23日 乙卯
  中将家殊なる御宿願有るに依って、大神宮御領六箇所地頭職を止めらる。その所々の
  内、謀反狼藉の輩出来せば、神宮より搦め出さるべし。且つはまた案内を触れ申すべ
  きの旨、これを祭主に仰せ遣わさる。而るに彼の六箇所の内、尾張の国一楊御厨は、
  神宮より宮掌を遣わし、地頭代を追い出すべきの由下知を加え、得分物を検封するの
  旨風聞せしむの間、故右大将殿薨去せしめ給うの最前件の狼藉に及ぶの條、頗る遺恨
  たり。尤も御尋ね有るべきものかの由、同じく仰せ遣わさるる所なり。御奉免状の書
  き様、
    御神領
    遠江の国蒲御厨・尾張の国一楊御厨・参河の国飽海本神戸・新神戸・大津神戸・
    伊良胡御厨惣追補使
   右件の所々の地頭等、別の御祈願に依って、彼の職を停止せられ候所なり。鎌倉中
   将殿御消息此の如し。仍って執達件の如し。
     建久十年三月二十三日     兵庫の頭
   祭主殿