*[北條九代記]
四月に文覺上人佐渡の国に配流せらる。
4月1日 壬戌
問注所を郭外に建てらる。大夫屬入道善信を以て執事と為す。今日始めてその沙汰有
り。これ故将軍の御時、営中に一所を点じ、訴論人を召し決せらるるの間、諸人群集
し鼓騒を成し、無礼を現すの條、頗る狼藉の基たり。他所に於いてこの儀を行わるべ
きかの由、内々評議有るの処、熊谷と久下と境相論の事対決するの間、直實西侍に於
いて鬢髪を除くの後、永く御所中の儀を停止せられ、善信の家を以てその所と為す。
今また別郭を新造せらると。
4月12日 癸酉
諸訴論の事、羽林直に聴断せしめ給うの條、これを停止せしむべし。向後大小事に於
いては、北條殿・同四郎主、並びに兵庫の頭廣元朝臣・大夫屬入道善信・掃部の頭親
義(在京)・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・和田左衛門の尉義盛・比企右衛門
の尉能員・籐九郎入道蓮西・足立左衛門の尉遠元・梶原平三景時・民部大夫行政等談
合を加え、計らい成敗せしむべし。その外の輩は、左右無く訴訟の事を執り申すべか
らざるの旨これを定めらると。
4月19日 天晴 [明月記]
年来養育する所の小男、保盛朝臣子□□□庶子、関東より召し出さる。この事親能入
道殿に触れ申す。事甚だ恐惶たり。今朝冠者を相具し行き向かい謝し披く。大略優免
の由これを語る。件の男本より元服、極めて事有るべからざるなり。自今以後猶殃禍
を招くべきか。
4月20日 辛巳
梶原平三景時・右京の進仲業等を奉行として、政所に書き下して云く、小笠原の弥太
郎・比企の三郎・同弥四郎・中野の五郎等従類は、鎌倉中に於いて、縦え狼藉を致す
と雖も、甲乙人敢えて敵対せしむべからず。もし違犯の聞こえ有るの輩に於いては、
罪科たり。慥に交名を尋ね注進すべきの旨、村里に触れ廻すべきの由、且つは彼の五
人の外、別の仰せ非ずんば、諸人輙く御前に参昇すべからずの由と。
4月23日 甲申
故将軍百箇日の御忌辰なり。御持仏堂に於いて仏事を修せらる。仏は新図の釈迦・阿
弥陀各一鋪、経は法華経六部、導師は荘厳房阿闍梨行勇と。
4月26日 天晴 [明月記]
静闍梨来る。晴光来臨す。天変の事等を談る。また去る二十三日、隆保朝臣・武士等
召し合わさるる事等ほぼこれを語る。隆保・武士地上に同座すと。御前の御壺なり(院
御廉中に執柄す。大将親経朝臣堂上に座すと)。盛衰浮眼か。悲しむべし。この間の
口状惣て覚えずと。或いは云く、夷島に遣わすべし。或いは云く、以往島に遣わすべ
しと。
4月27日 戊子
東国分の地頭等に仰せ、水便の荒野を新開すべきの旨、今日その沙汰有り。凡そ荒・
不作等と称し、乃貢減少の地に於いては、向後領掌を許すべからざるの由同じく定め
らると。廣元これを奉行すと。
4月29日 天晴 [明月記]
伝聞。改元有りと。建久十年を改め正治元年と為す。