1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

5月4日 天晴 [明月記]
  伝聞、公朝入道・公澄等関東の事に依って勘当に処せらると。その子細を聞かず。枉
  勢恩寵無双のものなり。今この事有り。これ天の責めか。
 

5月7日 戊戌 雨降る
  医師時長昨日京都より参着す。左近将監能直これを相具す。伊勢路を廻り参向すと。
  旅館以下の事は、兵庫の頭並びに八田右衛門の尉知家等沙汰を致すべきの由、御旨を
  含むものなり。今日時長掃部の頭が亀谷の家より、畠山の次郎重忠が南御門の宅に移
  住す。これ近々に候ぜしめ、姫君の御病悩療治し奉らんが為なり。この事度々辞し申
  すと雖も、去る月早く関東に参向すべきの旨院宣を下さるるの間、此の如しと。
 

5月8日 己亥 陰
  時長始めて朱砂丸を姫君に献ず。仍って砂金二十両以下の禄を賜ると。
 

5月13日 甲辰
  北條殿・三浦の介・同十郎左衛門の尉・八田右衛門の尉・梶原平三以下結番す。日別
  に医師を饗応せしむべきの旨定め下さるる所なり。仍って今日北條殿椀飯を時長に賜
  うと。
 

5月16日 丁未 丑の刻大地震
  今日、三川の国薑御厨並びに良御厨の地頭職を以て、大神宮に去け進せしめ給う。兵
  庫の頭廣元これを奉行すと。
 

5月17日 戊申
  勝長寿院別当恵眼房上洛す。中将家より御馬を賜う。また諸人餞送すと。
 

5月21日 [皇帝紀抄]
  前の左馬の頭隆保謀叛の事に依って土佐の国に配流せらる。
 

5月22日 癸丑
  丑の刻に浜辺焼亡す。人屋三十余家災す。平民部大夫・中澤兵衛の尉・飯富の源太等
  が家その中に在りと。

[明月記]
  人云く、前の左馬の頭隆保去る夜土佐の国に配流す。夜中出京すと。
 

5月29日 庚申
  今夕、姫君聊か御食事有り。上下喜悦の外他に無しと。