1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

6月2日 壬戌 小雨降る
  今日、法橋定豪勝長寿院別当職を補す。これ恵眼房の譲りと。
 

6月8日 戊辰 晴
  主計の頭資元朝臣の使者京都より参着す。申して云く、中将家御当年星祭、去る月二
  十三日始行すと。
 

6月11日 [九條家文書]
**九條良経書状
  抑も任大臣間の事、今朝殊に以て沙汰有るか。去る五日勅勘を免さるるの條、仰せを
  蒙り悦び思い給うの間、相次いで左大臣(花山院兼雅)辞し申さると。是運の熟か。
  冥の御助か。将又重ねて恥辱を極むべきか。神慮尤も以て不審。この時に当たり、返
  す返す御祈念有るべく候なり。摂政(近衛基通)と右幕下(源通親)、同心遏絶せら
  る。この事以ての外大事にて候なり。但し、神非礼を享けずと。彼の申す所ハ、ただ
  人道に絶えたるなり。申され超□すべきの由、未だその先蹤を知らざるなり。身事に
  於いてハ、去年超越の事、身恥に於いてハ左右に及ばず。惣てハ我氏の恥辱、別ニハ
  我家の瑕瑾なり。而るに幸いこの闕に逢い、その恥を雪がずハ、生涯永く世間を断つ
  べきの思いなり。大明神何の罪に依り、長く思し食しを弁うべきや。この上猶その子
  細多く候なり。所詮ただ殊に左大臣とたたに祈り申さるハ、足るべく候なり。九條殿
  よりも、定めて委細申され候けん。帋上に尽くし難きか。圓長知り候か。謹言。
    六月十一日           (九條良経花押)
 

6月14日 甲戌 晴
  姫君猶疲労せしめ給う。剰え去る十二日より御目瞳を上げ御う。この事殊に凶相の由、
  時長これを驚き申す。今に於いてはその恃み少なからんか。凡そ人力の覃ぶ所に非ざ
  るなり。
 

6月22日 天晴 [明月記]
  任大臣日なり。太政大臣頼實、左大臣良経、右大臣家實、内大臣通親、権大納言泰通
  ・通資、権中納言實教、参議兼良、参議家経、終日御前に在り。この事を聞き及び心
  中欣悦す。喩えに取る物無し。
 

6月25日 乙酉
  掃部の頭親能、姫君の御事に依って京都より参着す。洛中沙汰・重事等に於いて纏頭
  するの間、今に遅参すと。
 

6月26日 丙戌
  医師時長帰洛す。中将家より馬五疋・旅粮の雑事・送夫二十人・国雑色二人並びに兵
  士これを給う。また兵庫の頭以下馬を引く。去る比身の暇を給うと雖も、守宮令の下
  向を相待ち、今に遅留すと。
 

6月30日 庚寅 陰
  午の刻姫君(三幡)遷化す(御年十四)。尼御台所御歎息。諸人の傷嗟これを記すに
  遑あらず。乳母夫掃部の頭親能出家を遂ぐ。定豪法橋戒師たり。今夜戌の刻、姫君を
  親能が亀谷堂の傍らに葬り奉るなり。江間殿・兵庫の頭・小山左衛門の尉・三浦の介
  ・結城の七郎・八田右衛門の尉・畠山の次郎・足立左衛門の尉・梶原平三・宇都宮の
  弥三郎(最末、素服を着さず)・佐々木の小三郎・籐民部の丞等供奉す。各々素服と。