1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

7月6日 丙申 雷雨
  今日姫君御佛事。墳墓堂に於いてこれを修せらる。尼御台所渡御す。導師は宰相阿闍
  梨尊暁と。
 

7月10日 庚子 晴
  晩に及び参河の国の飛脚参り申して云く、室の平四郎重廣若干の強竊盗人等を率いて、
  当国の駅に於いて、武威を振るい謀計を廻すの間、路次往反の庶民、これが為に煩費
  有り。治罰を加えられざれば、国中静謐し難しと。
 

7月15日 陰、辰後雨下る [明月記]
  明日の仗議延引すと。関東の女子穢気不審の間、公卿使延引す。九月発遣せらるべし。
  仍ってこの仗議また急がれべからず延びらると。
 

7月16日 丙午 晴
  安達の弥九郎景盛使節として参川の国に進発す。重廣が横法を糺断せんが為なり。景
  盛日来頻りに以て使節を固辞す。これ若しくは去る春の比、京都より招き下す所の好
  女、片時の別離を愁うが故かと。而るに参河の国すでに父の奉行国たるの上は、遁避
  に所無きの旨その沙汰有り。遂に以て首途すと。
 

7月20日 庚戌 申の刻以後雷鳴甚雨、深更に及び月明
  暁鐘の期に至って、中将家中野の五郎能成を遣わし、猥りに景盛が妾女を召す。小笠
  原の彌太郎が宅を点じこれを居え置かる。御寵愛殊に以て甚だしと。これ日来重色の
  御志禁じ難きに依って、御書を通せらる。御使いの往復数度に及ぶと雖も、敢えて以
  て諾し申さざるの間此の如しと。
 

7月23日 癸丑 晴
  仙洞の御使い左衛門の少尉信季下向す。これ姫君遷化の事を訪い仰せらるるに依って
  なり。
 

7月25日 乙卯 陰
  信季帰洛す。尼御台所行光を以て使いと為し、砂金三十両を遣わさる。羽林また龍蹄
  五疋を賜う。比企の三郎御使いたりと。

[明月記]
  女房を以て下総の国三崎庄政所御下文を給う。種々の恩を蒙る。これ奉公の本意なり。
 

7月26日 丙辰 甚雨、雷一声。晩に及び晴に属く。
  夜に入り件の好女(景盛が妾)を召し、北向御所(石壺、北方に在るなり)に於いて、
  自今以後この所に候ずべしと。これ御寵愛甚だしき故なり。また小笠原の彌太郎長経
  ・比企の三郎・和田の三郎朝盛・中野の五郎能成・細野の四郎、以上五人の外、当所
  に参るべからざるの由定めらると。
 

7月29日 天晴 [明月記]
  今日雑色光澤を以て始めて三崎庄に下し遣わす。地頭等に触れんが為なり。この男官
  仕傍輩に勝れ、心操せ正直の者なり。