1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

8月15日 乙亥 晴
  鶴岡八幡宮の放生会、中将家御参宮無し。兵庫の頭廣元朝臣束帯、御使いとして神拝
  す。家子二人・郎等二十人共に在り。路次歩儀なり。中将家小舎人等前行すと。
 

8月16日 丙子 陰晴
  馬場の流鏑馬以下の神事例の如し。和田左衛門の尉義盛・梶原平三景時等、子息・郎
  従を相率いて宮寺を警固す。
 

8月18日 戊寅 陰
  安達の九郎景盛参河の国より帰参す。申して云く、数日彼の国に逗留せしめ、遠慮を
  廻し、郎従等を分遣し、方々に於いて重廣横行の所々を捜し求むと雖も、兼ねて以て
  逐電するの間、その行方を知らざるに依って帰参すと。
 

8月19日 己卯 晴
  讒侫の族有り。妾女の事に依って、景盛怨恨を貽すの由これを訴え申す。仍って小笠
  原の彌太郎・和田の三郎・比企の三郎・中野の五郎・細野已下の軍士等を石御壺に召
  し聚め、景盛を誅すべきの由沙汰有り。晩に及んで小笠原旗を揚げ、籐九郎入道蓮西
  が甘縄の宅に赴く。この時に至り、鎌倉中の壮士等鉾を争い競集す。これに依って尼
  御台所俄に以て盛長が宅に渡御す。行光を以て御使いと為し、羽林に申されて云く、
  幕下薨御の後幾程を歴ず。姫君また早世し、悲歎一に非ざるの処、今闘戦を好まる。
  これ乱世の源なり。就中景盛はその寄せ有って、先人殊に憐愍せしめ給う。罪科を聞
  かしめ給わば、我早く尋ね成敗すべし。事を問わず誅戮を加えられば、定めて後悔を
  招かしめ給うか。もし猶追討せられべくんば、我先ずその箭に中たるべしと。然る間
  渋りながら軍兵の発向を止められをはんぬ。凡そ鎌倉中の騒動なり。万人恐怖せざる
  と云うこと莫し。廣元朝臣云く、此の如き事先規無きに非ず。鳥羽院の御寵祇園女御
  は源の仲宗が妻なり。而るに仙洞に召すの後、仲宗を隠岐の国に配流せらると。
 

8月20日 庚辰 陰
  尼御台所盛長入道が宅に御逗留。景盛を召し仰せられて云く、昨日計議を加え、一旦
  羽林の張行を止むると雖も、我はすでに老耄なり。後昆の宿意を抑え難し。汝野心を
  存ぜざるの由、起請文を羽林に献るべし。然れば即ち御旨に任せこれを捧ぐ。尼御台
  所還御す。彼の状を羽林に献ぜしめ給う。この次いでを以て申されて云く、昨日景盛
  を誅せられんと擬すこと、粗忽の至り、不義甚だしきなり。凡そ当時の形勢を見奉る
  に、敢えて海内の守りに用い難し。政道に倦んで民愁を知らず、倡楼を娯しんで人の
  謗りを顧みざるが故なり。また召し仕う所は、更に賢哲の輩に非ず。多く邪侫の属た
  り。何ぞ況や源氏等は幕下の一族、北條は我が親戚なり。仍って先人頻りに芳情を施
  され、常に座右に招かしめ給う。而るに今彼の輩等に於いては優賞無く、剰え皆実名
  を喚ばしめ給うの間、各々以て恨みを貽すの由その聞こえ有り。所詮事に於いて用意
  せしめ給わば、末代と雖も、濫吹の儀有るべからざるの旨、諷諫の御詞を盡くさると。
  佐々木三郎兵衛入道御使いたり。