1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

9月8日 [高野山御影堂文書]
**関東御教書
  備後の国大田庄間の事、細々申せしめ給うの旨、慥に御覧を経候いをはんぬ。抑も地
  頭を補せらるの条は、更に新儀に非ず。世良庄司兼高・大田太郎光家等の例なり。こ
  の輩年来の者たりと雖も、謀叛の咎に依り、関東に召し下す。その跡所を以て(三善)
  康信法師に仰せ付けられ候なり。地頭分の事、彼等の注文に任せその沙汰を致すと。
  而るに公物を割取らしむの由、御訴え出来す。仍って地頭に相尋ねらるの処、陳状の
  折紙此の如し。御披見の為これを献る。当庄は本これ平家の領なり。今又謀叛人の跡
  なり。改易能わずの由、中将殿(頼家)御消息候所なり。仍って執達件の如し。
    九月八日            兵庫の頭(廣元)
  謹上 法華坊上人御房
 

9月9日 戊戌
  鶴岡八幡宮神事なり。廣元朝臣奉幣の御使いとして参宮すと。
 

9月17日 丙午
  京都大番役、懈緩の聞こえ有るに依って、催促を加うべきの旨、諸国の守護人等に仰
  せらると。廣元朝臣並びに景時等これを奉行す。
 

9月23日 壬子 日中より黄昏に至り雨下る。雷鳴数反。
  中将家永福寺に渡御す。御鞠有るべきの処、雨に依って止められをはんぬ。和田左衛
  門の尉が家に入御す。壮士等を召し出し相撲を決せらると。
 

9月25日 甲寅
  神馬(鹿毛駮、秘蔵の御馬なり。白鞍を置かる)を諏方の上宮に送り奉らる。下宮の
  御分は御劔(金作り、文は亀甲と)。

[明月記]
  巳の刻大臣殿に参る。これより先入道殿の御消息有り。鎌倉より消息有りと称す。そ
  の状奇特なり。左衛門の尉景高書を奉る。吉富庄民等の訴えなり。相尋ね杲らかにす
  と云いをはんぬ。
 

9月26日 乙卯
  幕府に於いて不動尊一体を供養せらる。導師は葉上房律師栄西、布施は被物五重・裹
  物五つ・馬一疋なり。これ南都に於いて日来造立せらる。掃部の頭親能が沙汰として、
  去る比これを召し下し奉ると。