1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

10月24日 癸未
  参河の国内に御寄付の大神宮の庄園六箇所有り。而るに守護人籐九郎入道蓮西代官善
  耀押妨せらるの由、神宮よりこれを訴え申すに依って、廣元朝臣奉行として、蓮西に
  尋ね問わるるの処、六箇所に於いては、御奉免の後、更に以てその沙汰を交えざるの
  由善耀内々申すの旨、昨日請文を進すの間、その状を御教書に副え、本宮に遣わさる。
  奉免の後は、爭かその妨げを成すべきやの由これを載せらると。
 

10月25日 甲申 晴
  結城の七郎朝光御所侍に於いて、夢想の告げ有りと称し、幕下将軍の奉為に、人別一
  万反の弥陀名号を傍輩等に勧む。各々挙ってこれを唱え奉る。この間朝光列座の衆に
  談って云く、吾聞く、忠臣は二君に仕えずと。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化の刻
  遺言有るの間、出家遁世せしめざるの條、後悔一に非ず。且つは今世上を見るに、薄
  氷を踏むが如しと。朝光は右大将軍の御時無双の近仕なり。懐旧の至り、遮って人々
  の推察在り。聞く者悲涙を拭うと。
 

10月27日 丙戌 晴
  女房阿波局結城の七郎朝光に告げて云く、景時が讒訴に依って、汝すでに誅戮を蒙ら
  んと擬す。その故は、忠臣は二君に仕えざるの由述懐せしめ、当時を謗り申す。これ
  何ぞ讎敵に非ざるや。傍輩を懲肅せんが為、早く断罪せらるべきの由具に申す所なり。
  今に於いては虎口の難を遁るべからざるか。てえれば、朝光つらつらこれを案じ、周
  章断腸す。爰に前の右兵衛の尉義村と朝光とは断金の朋友なり。即ち義村が宅に向か
  い、火急の事有るの由これを示す。義村相逢う。朝光云く、予亡夫政光法師が遺跡を
  伝領せずと雖も、幕下に仕うの後、始めて数箇所の領主と為る。その恩を思えば、猶
  須彌の頂上より高し。その往事を慕うの余り、傍輩の中に於いて、忠臣は二君に仕え
  ざる由を申すの処、景時讒訴の便を得て、すでに申し沈むの間、忽ち以て逆悪に処せ
  られて、誅を蒙らんと欲する旨、只今その告げ有り。二君と謂うは、必ずしも父子兄
  弟に依らざるか。後朱雀院御悩危急の間、御位を東宮(後冷泉)に譲り奉り御う。以
  後三條院立坊を奉らる。時に宇治殿を召し、両所の御事を仰せ置かる。今上の御事に
  於いては、承るの由申し給う。東宮の御事に至っては、御返事を申されずと。先規此
  の如し。今一身の述懐を以て、強ち重科に処せられ難からんかと。義村云く、縡すで
  に重事に及ぶなり。殊なる計略無くば、曽ってその災いを攘い難からんか。凡そ文治
  以降、景時が讒に依って命を殞し失滅するの輩、勝計うべからず。或いは今に見存し、
  或いは累葉愁墳を含むことこれ多し。即ち景盛去る比誅せられんと欲す。併しながら
  彼が讒より起こる。その積悪定めて羽林に帰し奉るべし。世の為君の為、退治せずん
  ば有るべからず。然れども弓箭の勝負を決せば、また邦国の乱を招くに似たり。須く
  宿老等に談合すべしてえり。詞終わって専使を遣わすの処、和田左衛門の尉・足立籐
  九郎入道等入来す。義村これに対し、この事の始中終を述ぶ。件の両人云く、早く同
  心の連署状を勒めこれを訴え申すべし。彼の讒者一人を賞せらるべきか。諸御家人を
  召し仕わらるべきか。先ず御気色を伺い、裁許無くば直に死生を諍うべし。件の状誰
  人の筆削たるべきや。義村云く、仲業が文筆誉れの上、景時に於いて宿意を挿むか。
  仍って仲業を招く。仲業奔り来たり、この趣を聞き掌を抵て云く、仲業宿意を達せん
  と欲す。堪えずと雖も、盍ぞ筆作を励ましざらんやと。群議の事終わり、義村盃酒を
  勧む。夜に入って各々退散すと。


10月28日 丁亥 晴
  巳の刻、千葉の介常胤・三浦の介義澄・千葉の太郎胤正・三浦兵衛の尉義村・畠山の
  次郎重忠・小山左衛門の尉朝政・同七郎朝光・足立左衛門の尉遠元・和田左衛門の尉
  義盛・同兵衛の尉常盛・比企右衛門の尉能員・所左衛門の尉朝光・民部の丞行光・葛
  西兵衛の尉清重・八田左衛門の尉知重・波多野の小次郎忠綱・大井の次郎實久・若狭
  兵衛の尉忠季・渋谷の次郎高重・山内刑部の丞経俊・宇都宮の彌三郎頼綱・榛谷の四
  郎重朝・安達籐九郎盛長入道・佐々木三郎兵衛の尉盛綱入道・稲毛三郎重成入道、籐
  九郎景盛・岡崎四郎義實入道・土屋の次郎義清・東の平太重胤・土肥の先次郎惟光・
  河野の四郎通信・曽我の小太郎祐綱・二宮の四郎・長江の四郎明義・諸の次郎季綱・
  天野民部の丞遠景入道・工藤の小次郎行光・右京の進仲業已下の御家人、鶴岡の廻廊
  に群集す。これ景時に向背する事、一味の條改変すべからざるの旨敬白するが故なり。
  頃之仲業訴状を持ち来たり、衆中に於いてこれを読み上ぐ。鶏を養う者狐を蓄えず。
  獣を牧う者狼を育ざるの由これを載す。義村殊にこの句に感ずと。各々署判を加う。
  その衆六十六人なり。爰に朝光兄小山の五郎宗政、姓名を載すと雖も判形を加えず。
  これ弟の危うきを扶けんが為、傍輩皆身を忘れこの事を企つの処、兄として異心有る
  の條如何に。その後件の状を廣元朝臣に付す。和田左衛門の尉義盛・三浦兵衛の尉義
  村等これを持ち向かう。