1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

11月8日 丙申
  右近将監多の好方、去る建久四年宮人曲の賞に依って、故右大将軍より、飛騨の国荒
  木郷を賜りをはんぬ。而るに今に於いては、子息多の好節に譲補すべきの由これを申
  す。仍って今日その沙汰を経られ御許容有り。且つは彼の地に於いて守護使入部すべ
  からざるの旨、仰せ下さるる所なり。北條殿これを奉行せしめ給うと。
 

11月10日 戊戌 晴
  兵庫の頭廣元朝臣、連署状(景時を訴え申す状)を請け取ると雖も、心中独り周章す。
  景時が讒侫に於いては左右に能わずと雖も、右大将軍の御時、親しく昵近の奉公を致
  す者なり。忽ち以て罪科を被ること、尤も以て不便の條、和平の儀を廻すべきかの由
  猶予するの間、未だこれを披露せず。而るに今日、和田左衛門の尉と廣元朝臣と御所
  に参会す。義盛云く、彼の状定めて披露せらるか。御気色如何にと。未だ申さずの由
  を答う。義盛眼を瞋らして云く、貴客は関東の爪牙耳目として、すでに多年を歴るな
  り。景時が一身の権威を怖れ、諸人の欝陶を閣く、寧ろ憲法に叶わんやと。廣元云く、
  全く怖畏の儀に非ず。ただ彼の損亡を痛むばかりなりと。義盛件の朝臣の座辺に居寄
  り、恐れずんば爭か数日を送りべけんや。披露せらるべきや否や。今これを承り切る
  べしと。殆ど呵責に及ぶ。廣元申すべきの由を称し座を起ちをはんぬ。
 

11月12日 庚子 晴
  廣元朝臣件の連署申状を持参す。中将家これを覧玉い、即ち景時に下さる。是非を陳
  ぶるべきの由仰せらると。
 

11月13日 辛丑 陰
  梶原平三景時彼の訴状を下し給うと雖も、陳謝すること能わず。子息・親類等を相率
  いて相模の国一宮に下向す。但し三郎兵衛の尉景茂に於いては、暫く鎌倉に留むと。
 

11月18日 丙午 晴
  中将家比企右衛門の尉能員が宅に渡御す。南庭に於いて御鞠有り。北條の五郎時連・
  比企の彌四郎・富部の五郎・細野の四郎・大輔房源性等これに候ず。その後御酒宴の
  間、梶原三郎兵衛の尉景茂御前に候ず。また右京の進仲業銚子を取り同候す。羽林景
  茂を召し仰せて云く、近日、景時権威を振うの余り、傍若無人の形勢有り。仍って諸
  人一同の訴状を上ぐ。仲業即ち訴状の執筆たるなり。景茂申して云く、景時は先君の
  寵愛殆ど傍人に越ゆると雖も、今に於いてその芳躅無きの上は、何の次いでを以て非
  義を行うべきか。而るに仲業が翰墨を慎み、諸人の弓箭を軼怖すと。列座の傍輩、景
  茂が御返事の趣神妙の由密談すと。羽林今夜御逗留なり。
 

11月19日 丁未 陰
  早旦能員が宅に於いて御鞠有り。人数昨日に同じ。但し若宮三位房並びに僧義印等こ
  れに参加す。午の刻に還御す。能員故に御引出物を献る。御劔一腰、北條の五郎時連
  これを持参す。御馬一疋(鴾毛、蛛丸、貝鞍)、比企の三郎・同四郎これを引く。
 

11月30日 戊午
  武蔵の国の田文これを整えらる。これ故将軍の御時、惣検を遂げらるるの後、未だ田
  文の沙汰に及ばずと。